京都市美術館
京都市美術館(きょうとしびじゅつかん、英語: Kyoto City Museum of Art[注釈 1])は、京都府京都市左京区岡崎の岡崎公園にある美術館。1933年(昭和8年)開館。公立美術館としては東京都美術館に次ぎ日本で二番目に開館した。
京都市内にある国公立の博物館・美術館4館[注釈 2]で構成する「京都ミュージアムズ・フォー」の1つである。

コレクションは明治以降 - 1990年(平成2年)頃にまで至る日本画、洋画、工芸作品などが中心。主な展覧会はこれらコレクションを年数回テーマを変えて展示換えする常設展のほか、各種公募展、大学の卒業展などがある。また、新聞社主催の大規模展覧会が集客の核になっている。

2020年のリニューアルに伴い京セラが命名権を取得し、2020年(令和2年)3月21日の再オープンに先立ち2019年から京都市京セラ美術館(きょうとしきょうセラびじゅつかん、英語: Kyoto City KYOCERA Museum of Art)の呼称を用いている。なお、伏見区の京セラ本社にある京セラギャラリー(旧称:京セラ美術館)とは異なる。

館長はリニューアル案の設計者でもある建築家の青木淳[1]。2020年度グッドデザイン賞受賞[2]。

沿革

リニューアル前の京都市美術館(2010年)
1928年(昭和3年)に京都で行われた昭和天皇即位の礼を記念して計画が始まったため、当初は大礼記念京都美術館という名称であった[3]。帝冠様式の本館は前田健二郎の設計コンペ当選案をもと京都市土木局営繕課が設計したもので、現存する日本の公立美術館では最も古い。当初は東京都美術館同様に公募展の貸し会場となったほか、独自のコレクションを形成し常設展も開始した。

敗戦後駐留軍により接収されていた。1952年(昭和27年)の接収解除時に京都市美術館に改称[4]。

2000年(平成12年)には公募展などの増加に対応するため、別館を開館している。

2017年4月10日から施設リニューアルのため休館(後述)[5]。リニューアルオープンは2020年3月21日を予定していたが、新型コロナウイルス感染拡大、及びそれに伴う緊急事態宣言発令の影響により解除後の5月26日まで延期され、開館後も当面の間(6月7日までを予定)は事前予約制・人数制限・府県境を越えた移動自粛を考慮し来場者は京都府在住者に限定させる、といった処置を行っていた[6]。

リニューアルと命名権
開館80周年にあたる2014年に、京都市は「京都市美術館将来構想」を策定した。翌年には「京都市美術館再整備基本計画」を策定し、公募型プロポーザルにより、応募者の中から青木淳・西澤徹夫設計共同体の案が選ばれた。リニューアル工事は休館後の2018年1月に始まり、2019年10月に竣工し、2019年11月には報道陣や美術関係者や一般市民に対する公開が行われた[7]。

この案では、もともとの建物にあったものの見失われていた東西軸(神宮道に面した西側の広場から、西玄関、中央の大陳列室、東玄関、その東にある東山を背景にした日本庭園に至る軸線)が強調されるなど、長年の使用により使われなくなっていた空間の可能性を発掘しようとした[8][9]。また、観客の動線が大幅に刷新された。

まず玄関周辺にミュージアムカフェやミュージアムショップなどの開かれた施設を置くために[9]、西側広場を掘り込んでスロープ状の広場「京セラスクエア」に変え、掘り込みであらわになった従来の玄関の下側の地下一階部分にガラスをはめて、新玄関やカフェ・ミュージアムショップなどからなる「ガラス・リボン」という空間を作り出した[8]。観客は地下一階から入り、かつての地下下足室だった空間から新設の大階段を経て中央ホール(旧大陳列室)に入る。この中央ホールが館内各所へのハブとなる[7]。本館の北側(北回廊)が企画展・公募展などに使われ、南回廊1階にはこれまでなかった美術館コレクションの常設展示室(1,000平方メートル)が設けられる[7]。館内にある、開館以来の装飾などはほぼそのまま残り、美術館の歴史を継承する[7]。南北にある中庭が設備機器に占拠され非公開になっていたのを改め、南中庭を復元し「天の中庭」とし、北中庭はガラス天井を張った吹き抜け空間「光の広間」にした。ここはパーティーやイベント等に使用される。美術館の北東側にあった、川崎清による設計の収蔵棟は、新たな設備室および現代美術に対応する1,000平方メートル規模の新展示室、収蔵庫、オフィス等を収容した新館「東山キューブ」として改装され、屋上庭園が設けられている[8][7]。その外側に広がる日本庭園は、第4回内国勧業博覧会会場跡の岡崎公園に、明治42年(1909年)に作られた京都市商品陳列所の庭園として七代目小川治兵衛(植治)が作庭したもので、京都市美術館建設のために京都市商品陳列館が撤去された際に庭園は残されて現在に至っている。

一方、新館建設などリニューアルを実施するのに合わせ、京都市は2016年9月1日から30日にかけ、費用の獲得と愛称を決める目的で命名権の募集を実施したが、市民団体や有識者などからは「公共の文化財に一企業の名称が被るのは相応しくない」などの異論が出ている[3][10][11]。同年10月6日、京都市は同市伏見区に本社を置く京セラに命名権を売却すると発表した[3][12]。再オープン時から「京都市京セラ美術館」の名称が用いられる。

命名権料は、再オープン時から50年契約の総額50億円(消費税別)[注釈 3]で、2017年度から2019年度に3回に分けて支払われる[3][12]。これによりリニューアルにかかる整備事業費のおよそ半額が賄われる[12][13]。

モネ展
クロード・モネ(Claude Monet, 1840年11月14日 - 1926年12月5日)は、印象派を代表するフランスの画家。代表作『印象・日の出』(1872年)は印象派の名前の由来になった[2]。

概要
1840年にパリで生まれたが、5歳のころから少年時代の大半をノルマンディー地方のル・アーヴルで過ごした。絵がうまく、人物のカリカチュアを描いて売るほどであったが、18歳のころに風景画家ブーダンと知り合い、戸外での油絵制作を教えられた(→ル・アーヴル(少年時代))。1859年にパリに出て絵の勉強を始め、ピサロ、シスレー、バジール、ルノワールといった仲間と知り合った(→画塾時代)。

1865年にサロン・ド・パリ(サロン)に初入選してから、サロンへの挑戦を続け、戸外制作と筆触分割の手法を確立していったが、1869年と1870年のサロンに続けて落選の憂き目に遭った。私生活では、カミーユ・ドンシューとの交際を始め、長男も生まれたが、父親からは援助が断たれ、経済的に苦しい時代が始まった(→サロンへの挑戦)。1870年、普仏戦争が始まり、兵役を避けてロンドンに渡った。このとき画商デュラン=リュエルと知り合い、重要な支援者を得ることとなった(→普仏戦争、ロンドン)。パリに戻ると、その近郊アルジャントゥイユにアトリエを構え、セーヌ川の風景などを描いた。

1874年、仲間たちと、サロンとは独立した展覧会を開催して『印象・日の出』などを出展し、これはのちに第1回印象派展と呼ばれる歴史的な出来事となった。しかし、当時の社会からの評価は惨憺たるものであった。1878年まで、アルジャントゥイユで制作し、第2回・第3回印象派展に参加した(→アルジャントゥイユ(1870年代))。1878年、同じくセーヌ川沿いのヴェトゥイユに住み、パトロンだったエルネスト・オシュデとその妻アリス・オシュデの家族との同居生活が始まった。妻カミーユを1879年に亡くし、アリスとの関係が深まっていった。他方、印象派グループは会員間の考え方の違いが鮮明になり、解体に向かった(→ヴェトゥイユ(1878年-1881年))。

次いで1881年にポワシーに移り住み、ノルマンディー地方への旅行に出ている(→ポワシー(1881年-1883年))。1883年、これもセーヌ川沿いのジヴェルニーに移り、生涯ここで暮らした。1880年代には、地中海沿岸やオランダなど、ヨーロッパ各地に制作旅行に出かけることが多かった。1886年にニューヨークでデュラン=リュエルが印象派の展覧会を開いたころから、経済的に安定するようになった(→各地の制作旅行(1880年代))。1890年代には、ジヴェルニーの自宅周辺の『積みわら』や『ポプラ並木』、また『ルーアン大聖堂』を描いた連作に取り組んだ。このころには、大家としての名声が確立してきた。1892年、アリスを2人目の妻とした。また、日本美術愛好者の集い「Les Amis de l'Art Japonais_」(1892 - 1942[3])の会員でもあった(→「積みわら」からの連作(1890年代))。

1890年代、自宅に「花の庭」と、睡蓮の池のある「水の庭」を整えていったが、1898年ごろから睡蓮の池を集中的に描くようになった。1900年までの『睡蓮』第1連作は、日本風の太鼓橋を中心とした構図であったが、その後1900年代後半までの第2連作は、睡蓮の花や葉、さらに水面への反映が中心になっていき、1909年の『睡蓮』第2連作の個展に結実した。その間、ロンドンを訪れて国会議事堂の連作を手がけたり、1908年に最後の大旅行となるヴェネツィア旅行に出たりしている(→「睡蓮」第1・第2連作(1900年代))。

最晩年は、視力低下や家族・友人の死去といった危機に直面したが、友人クレマンソーの励ましを受けながら、白内障の手術を乗り越えて、オランジュリー美術館に収められる『睡蓮』大装飾画の制作に没頭し、86歳で最期を迎えた(→「睡蓮」の部屋(最晩年))。

モネのカタログ・レゾネには、油彩画2,000点以上が収録されている(→カタログ)。モネたち印象派の画家たちは、ロマン派(ドラクロワ)の豊かな色彩、コローやドービニーらバルビゾン派の緻密な自然観察、クールベの写実主義と反逆精神、マネの近代性を受け継ぎ、伝統的なアカデミズム絵画の決めた主題、構図、デッサン、肉付法・陰影法に縛られない、自由な絵画を生み出した。モネは特に戸外制作を重視し、物の固有色ではなく、日光やその反射を受けて目に映る「印象」をキャンバスに再現することを追求した。絵具をパレットで混ぜずに、素早い筆さばきでキャンバスに乗せていくことで、明るく、臨場感のある画面を作り出すことに成功した。その後の連作の時代には、光の当たったモチーフよりも、光そのものが主役の位置を占めるようになり、物の明確な形態は光と色彩の中に溶融していった(→時代背景、画風)。鋭敏な観察力と感受性をもって絶え間なく変わり続ける風景を表現したモネは、印象派を代表する画家と言われる(→評価と影響)。作品は、モネ存命中の1890年代から徐々に美術市場での評価が高まっていったが、20世紀を通じてオークションで次々記録を塗り替える高額落札が生まれ、数十億円で落札されるに至っている(→市場での高騰)。
モネ展