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法起院

開基徳道上人、天平七年建立播磨国揖保郡矢田部郷い生まれた上人は、二十才で初瀬お道明上人ついて、佛道を研修し、やがて道明上人と共に長谷寺の開基となる。上人は、この世の寿命を終わりあの世へ赴いたのであったが、閻魔大王から西国三十三ヵ所巡りの功徳を語られ、再び娑婆へ戻り、民衆に霊場巡拝を勧めよとて、観音有縁の地三十三か所を示され、あの世から追帰されたと思うと、死後七日の上人が元の身に蘇り今日の札所を開くに至った。晩年この地に隠棲し、一宇を営み法起院と称す。本尊は御自作の徳道上人で、上人は云わば観音巡礼の元祖である。又当院は長谷寺の塔頭であり、開山堂である。
徳道上人の御詠歌
ごくらくはよそにはあらじわがこころ おなじはちすのへだてやはある。現地の看板より

徳道上人は斉明天皇の御宇二年(西暦六五六年)、播麿の国矢田部の里で誕生なさいました。
その容貌は気品に満ち、眼は真澄鏡(ますみかがみ)のように美しく清らかで、髪の毛は 梳(くしけず)れば滴(したた)るように黒く艶やかに光り、深くたたえられた優雅さと聡明さに里人達は目を見張ったそうです。
成長されるにしたがって読書を好み、手に筆を持つことを無上の楽しみとし、神童との噂の中で 連日精進をお重ねになりました。
しかし、突然起こった不幸は上人の父を奪い、そして数年の後には母も 不帰の客となったのです。
仏の道を極めることこそ人間に生まれた最高の道であり、 亡き父母の菩提を弔うことが今の自分にとっては、真実の報恩であろうと大悟徹底された上人は、当時我が国随一の大名僧であった大和長谷寺の道明大徳との間に師弟の契りをお結びになりました。
約十年間の修行の後、智道兼備の名僧となられた上人は、大和の長谷寺、鎌倉の長谷寺をはじめ諸国に四十九ヶ所の寺院を建立されました。
その中でも大和の長谷寺では本尊大観音を御造立されました。
前記の養老二年の春、突然の病のために仮死状態にあった上人は、夢の中で閻魔大王にお会いになり、悩める人々を救う為に三十三ヶ所の観音菩薩の霊場を広めるように委嘱され、そして三十三ヶ所の宝印を与えられて仮死状態から解放されました。
上人は三十三ヶ所の霊場を設けましたが、人々は上人を信用しなかったので、やむなく宝印を摂津中山寺にお埋めになったと伝えられています。
二百七十年後の永延二年(西暦九八八年)に、花山法皇がこの宝印をお掘り出しになり、今日の三十三ヶ所を復興なさいました。


法起院境内図

本堂

はがきの木


タラヨウという木をご存知でしょうか。はがきの語源になったことから「はがきの木」「郵便局の木」などの別名を持つ常緑性高木です。葉に文字が書けるというとても珍しい特徴があります。法起院には「はがきの木」が植えてあります。2016年4月16日現在

はがきの木