飛鳥京
飛鳥京 (あすかきょう、あすかのみやこ) は、古代の大和国高市郡飛鳥、現在の奈良県高市郡明日香村一帯にあったと想定される天皇(大王)の宮やその関連施設の遺跡群の総称、およびその区域の通称。藤原京以降のいわゆる条坊制にならう都市ではなく、戦前の歴史学者喜田貞吉による造語とされる。

飛鳥寺と元興寺との関係
元興寺(がんごうじ)は、奈良市にある寺院で、蘇我馬子が飛鳥の地に建立した日本最古の仏教寺院法興寺(ほうこうじ)がその前身です。法興寺は、和銅3年(710)の平城遷都の後に、平城京へ移転し元興寺と名を変えました。飛鳥の地にあった法興寺も残り、飛鳥寺と呼ばれるようになります。現在の元興寺は、西大寺の末寺で、真言律宗の寺院です。
飛鳥寺;飛鳥寺(あすかでら)は、奈良県高市郡明日香村飛鳥にある真言宗豊山派の寺院。山号は鳥形山(とりがたやま)。本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来。現在は正式には安居院という。開基(創立者)は蘇我馬子で、蘇我氏の氏寺である法興寺(仏法が興隆する寺の意)の後身である。思惟殿は新西国三十三箇所第9番札所で本尊は聖観音である。
飛鳥寺には複数の呼称がある。法号は「法興寺」または「元興寺」(がんごうじ)であり、平城遷都とともに今の奈良市に移った寺は「元興寺」と称する。一方、蘇我馬子が建立した法興寺中金堂跡に今も残る小寺院の公称は「安居院」(あんごいん)である。『日本書紀』では「法興寺」「元興寺」「飛鳥寺」などの表記が用いられている[注釈 2]。古代の寺院には「飛鳥寺」「山田寺」「岡寺」「橘寺」のような和風の寺号と、「法興寺」「浄土寺」「龍蓋寺」のような漢風寺号(法号)とがあるが、福山敏男は、法号の使用は天武天皇8年(679年)の「諸寺の名を定む」の命以降であるとしている[1]。「法興」とは「仏法興隆」の意であり、隋の文帝(楊堅)が「三宝興隆の詔」を出した591年を「法興元年」と称したこととの関連も指摘されている[2]。また『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』に引用される「露盤銘」には「建通寺」と記されているが[3]、これは後世の偽法号とする説もある[4]。
飛鳥大仏
御本尊の「釈迦如来坐像」は、銅製で国の重要文化財に指定されています。
605年(推古天皇13年)、時の天皇が聖徳太子や蘇我馬子や皇子とともに発願し、鞍作鳥(百済の仏師)によって造られた日本最古の大仏。



飛鳥寺

本尊飛鳥大仏

本堂

思惟殿

御朱印



高取町武家屋敷と土佐街道

土佐町の由来
六世紀の始め頃、大和朝廷の都造りの労役で故里土佐国を離れこの地に召しだされたものの、任務を終え帰郷するときには朝廷の援助なく帰郷がかなわず、この地すみ着いたところから土佐と名づけられたと思われる。故郷を離れて生きていく生活を余儀なくされた人達のたったひとつの自由な意思は郷里の名を今の場所につけることであった。古代、中世を経て近世に入り植村氏が高取城に入部するに伴い土佐はその城下町としての政治、経済、産業の中心となり町筋には商家が立ち並び伊勢屋、池田屋、観音寺や、さつまや等が名を連ねた。細長く続く道筋は、往時の面影を残し、せせらぎの音は訪れる人の心を癒してくれる。毎年開催
されるお城祭りには、高取土佐時代行列保存会による奴行列が当時の模様を再現し好評を博している。ここ土佐町は有史以来の全時代に関わってきた町として数少ない貴重な歴史を
秘めている。→現地看板より

奈良県高取町にある「土佐街道」は、かつて存在した山城「高取城」の城下町として栄えた地域です。元弘2年(1332年)、高取の豪族、越智八郎は、標高583.9メートルの高取山に高取城を築きます。
その後、この地に入った本多氏により、高取城の整備、拡張が行われました。この頃ふもとには、家臣の屋敷が移され、城下町が開かれました。
本多氏のあとには、植村氏が旧高取藩の初代藩主となり、江戸時代には植村氏2万5千石の城下町として、栄えました。街道には、現在でも、当時の屋敷跡や町家が残っており、旧城下町の名残が感じられます。
城下町の風情を一層高める石畳は、平成7(1995)年の震災後に行われた復旧工事の際、大量に出土した阪神国道線の敷石。埋め込まれたタイルには9種の薬草が描かれ、薬の町としても賑わった高取の歴史を伝えている。

2022年6月11日に行きましたとき、現地のガイドさんは現地の方が住宅をなおしてもどこからも補助がない。と嘆いていました。

高取町散策マップ

土佐町の町並み

高松塚古墳

国営飛鳥歴史公園内高松塚周辺地区の東に位置する古墳です。石室の壁画が有名で、特に色彩鮮やかな西壁の女子群像は、歴史の教科書などにも紹介されているのでご存知の方も多いでしょう。
7世紀末から8世紀初頭にかけて築造された終末期古墳で、直径23m(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳です。
当初は、盗掘を逃れ残っていた銅鏡などから7世紀末から8世紀初めの終末期のものと推定されていましたが、2005年の発掘調査によって、藤原京期(694年~710年)の間と確定されました。被葬者は特定されておらず、3つの主な説があります。

発見の経緯

1962(昭和37)年頃、明日香村檜前の村人がショウガを貯蔵しようと直径約60cmの穴を、現在の墳丘南側に掘ったところ、穴の奥で擬灰岩の四角い切石が見つかったことが発端となりました。
その後、1970(昭和45)年に古墳近くに遊歩道設置のための調査が必要となり、奈良県立橿原考古学研究所に発掘調査を依頼しました。
1972(昭和47)年3月に末永雅雄所長指揮の下、関西大学の網干善教助教授を中心とした関西大学と龍谷大学の研究者・学生グループによって高松塚古墳の発掘調査が始まりました。発掘開始から間もない3月21日には極彩色の壁画が発見されました。
古墳自体は鎌倉時代頃に盗掘を受けており、石室の南壁には盗掘孔が開けられていましたが、壁画の彩色は鮮やかに残り、盗掘をまぬがれた副葬品の一部もこの時検出されました。
極彩色壁画の出現は考古学史上まれにみる大発見として、26日に新聞に発表され、日本中でトップニュースとなりました。
発掘作業は、国家プロジェクトとなり、壁画発見からほどなく4月5日には文化庁に引き継がれました。その後1973(昭和48)年高松塚古墳は特別史跡に、また極彩色壁画は1974(昭和49)年に国宝に指定されました。

石室・壁画について


石室は凝灰岩の切石を組み立てたもので、南側に墓道があり、南北方向に長い平面があります。
石室の寸法は南北の長さが約265cm、東西の幅が約103cm、高さが約113cmと狭く、平らな底石の上に板石を組み合わせた造りです。壁画は石室の東壁・西壁・北壁(奥壁)・天井の4面に存在し、切石の上に厚さ数ミリの漆喰を塗った上に描かれています。
東壁には手前から男子群像、四神のうちの青龍とその上の太陽、女子群像が描かれ、西壁にはこれと対称的に、手前から男子群像、四神のうちの白虎とその上の月、女子群像が描かれています。

男子・女子の群像はいずれも4人一組で、計16人の人物が描かれていますが、中でも西壁の女子群像は色彩鮮やかで、歴史の教科書をはじめさまざまな場所でカラー写真で紹介され、「飛鳥美人」のニックネームで知られています。 奥の北壁には四神のうちの玄武が描かれ、天井には星辰が描かれています。 天井画は、円形の金箔で星を表し、星と星の間を朱の線でつないで星座を表したものです。

石室に安置されていた棺は、わずかに残存していた残片から、漆塗り木棺であったことがわかっています。
石室は鎌倉時代頃に盗掘にあっていましたが、副葬品や棺の一部が残っていました。
出土品は漆塗り木棺の残片のほか、棺に使われていた金具類、銅釘、副葬品の大刀金具、海獣葡萄鏡、玉類(ガラス製、琥珀製)などでした。中でも隋唐鏡の様式をもつ海獣葡萄鏡と、棺の装飾に使われていた金銅製透飾金具がよく知られています。

壁画の劣化、今後の課題

発掘調査以降、壁画は現状のまま現地保存することになり、文化庁が石室内の温度や湿度の調整、防カビ処理などの保存管理、そして1981年以降年1回の定期点検を行ってきた。しかし、2002年から2003年にかけて撮影された写真を調べた結果、雨水の浸入やカビの発生などにより壁画の退色・変色が顕著になっていることが2004年に明らかにされた。
高松塚古墳壁画のカビによる劣化が一般に知られるようになったのは、文化庁が2004年6月に出版した『国宝高松塚古墳壁画』により現状が明らかになり、新聞で大々的に報道されてからである。1972年の壁画発見当時、石室内には南壁の盗掘孔から流れ込んだ土砂が堆積しており、東壁の男子群像の右半分など、土砂や地下水の影響で画面が汚染されている部分もあったが、壁画の大部分には鮮明な色彩が残されていた。これらの壁画は切石に直接描いたものではなく、切石の上に数ミリの厚さに塗られた漆喰層の上に描かれているが、漆喰自体が脆弱化しており、剥落の危険性が懸念されていた。また、1,300年近く土中にあり、閉鎖された環境で保存されてきた石室が開口され、人が入り込むことによって温湿度などの環境変化、カビ、虫などの生物による壁画の劣化が懸念された。劣化をいかに食い止め、壁画を後世に伝えていくかについては、発見当初からさまざまに検討されていた。
→素人考えですが 徳島県の大塚美術館のように絵画を陶器化しているようなことを
 されたらどうかと思う次第です。

高松塚古墳のパンフレット



高松塚古墳

高松塚壁画館の入り口
館内では写真はとれない

石舞台古墳


 最初、周囲は土で隠れていたものが盛り土が失われ露出したものです。蘇我馬子の墓
だといわれています。築造は7世紀はじめ。総重量2,300トンの石を積みあげた姿は圧巻です。
大化の改新によって蘇我氏が滅びと当時の天皇陵よりも大きかったのでそれ自体が問題でした。その結果、馬子の墓である石舞台古墳は壊され、墓は別に移されたといわれています。そして石舞台古墳といわれるように石シツが丸裸になった姿で現代までその姿をさらすことになりました。舞台とは狐が踊っていたのでその名がついたそうです。
 
 

石舞台古墳