更新:2022年5月24日

元興寺

元興寺(がんごうじ)は、奈良県奈良市にある寺院。南都七大寺の1つ。
蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)が、平城京遷都に伴って平城京内に移転した寺院である。奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退して、次の3寺院が分立する。

元興寺(奈良市中院町)
旧称「元興寺極楽坊」、1978年(昭和53年)「元興寺」に改称。
真言律宗、西大寺末寺。本尊は智光曼荼羅。元興寺子院極楽坊の系譜を引き、鎌倉時代から独立。本堂・禅室・五重小塔は国宝。境内は国の史跡「元興寺極楽坊境内」。世界遺産「古都奈良の文化財」の構成資産の1つ。
元興寺(奈良市芝新屋町)
華厳宗、東大寺末寺。本尊は十一面観音。元興寺五重塔・観音堂(中門堂)の系譜を引く。木造薬師如来立像は国宝。境内は国の史跡「元興寺塔跡」。
小塔院(奈良市西新屋町)
真言律宗。本尊は虚空蔵菩薩。元興寺小塔院の系譜を引く。境内は国の史跡「元興寺小塔院跡」。

元興寺のパンフレットによれば元興寺の歴史は次のとおりである。遠くインドの地で釈迦が開いた仏教が、中国・朝鮮半島を経てわが国に伝えられたのは、欽明天皇13年(日本書記による壬申の年-552、一説によれば元興寺縁起による戊午の年宣化天皇3年538年)といわれます。
 新しく渡来した異国の宗教の受容の問題をめぐって、当時の進歩派であった蘇我氏が崇仏を主張し、一方、保守派であった物部氏は排仏を固守し、両者の対立が次第に激しくなり、仏教もそのためにいろいろな迫害を受けることとなりました。
 しかし、用明天皇2年(587)になって、蘇我馬子はその甥の子であるとともに娘の婿
にもあたる厩戸王(うまやどおう)(後の聖徳太子)とともに軍を起こし、排仏派の頭領であった物部守屋を打ち破り、ようやくのことで日本の仏教受容の道を開くことになります。その翌年、馬子はその甥にあたる崇峻天皇が即位したのを機会に、高市郡の飛鳥の地にはじめて正式の仏寺に着手しました。(588)この寺が元興寺前身の法興寺で地名によって飛鳥寺ともいわれる寺です。
この飛鳥寺は、三輪・法相の両学派が最初に伝えられて我が国仏教の源流となっただけでなく、蘇我氏を通じての大陸文化輸入の中心舞台となり、さらに政治・外交の場ともなったようです。いわゆる飛鳥時代の文化は、まさに飛鳥寺を中心として展開したといって過言ではないようです。→元興寺のパンフレットより
現在、「史跡元興寺」として指定されている地域は、奈良市中院町の「元興寺極楽坊」、同市芝新屋町の「元興寺塔跡」、同市西新屋町の「元興寺小塔院跡」の3か所である。これらはいずれも、蘇我馬子が6世紀末、飛鳥に建立した日本最古の本格的寺院、法興寺(現在の飛鳥寺)の後身である。

和銅3年(710年)の平城京遷都に伴って、飛鳥にあった薬師寺、厩坂寺(のちの興福寺)、大官大寺(のちの大安寺)などは新都へ移転した。法興寺は養老2年(718年)平城京へ移転したが、飛鳥の法興寺も廃止はされずに元の場所に残った。通常、飛鳥にある寺を「法興寺」「本元興寺」、平城京の方の寺を「元興寺(新元興寺)」と称している。「法興」も「元興」も、日本で最初に仏法が興隆した寺院であるとの意である。

奈良時代の元興寺は三論宗と法相宗の道場として栄え、東大寺や興福寺と並ぶ大伽藍を誇っていた。寺域は南北4町(約440メートル)、東西2町(約220メートル)と南北に細長く、興福寺の南にある猿沢池の南方、今日「奈良町(ならまち)」と通称される地区の大部分が元は元興寺の境内であった。猿沢池南東側にある交番のあたりが旧境内の北東端、奈良市音声館(奈良市鳴川町)のあたりが旧境内の南西端にあたる。