更新:2022年5月24日


東大寺

東大寺盧舎那仏像は、奈良県奈良市の東大寺大仏殿(金堂)の本尊である仏像(大仏)。一般に東大寺大仏、奈良大仏として知られる。
聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会が行われた。その後、中世、近世に焼損したため大部分が補作されており、当初に制作された部分で現在まで残るのはごく一部である。「銅造盧舎那仏坐像」として国宝に指定されている。
 2022年5月24日に行った。拝観コースとしては標準の南大門→大仏殿→二月堂→三月堂(法華堂)→四月堂(中には入れなかった)と拝観した。
東大寺大仏は、聖武天皇により天平15年(743年)に造像が発願された。実際の造像は天平17年(745年)から準備が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会が実施された。 のべ260万人が工事に関わったとされ、関西大学の宮本勝浩教授らが平安時代の『東大寺要録』を元に行った試算によると、創建当時の大仏と大仏殿の建造費は現在の価格にすると約4657億円と算出された。

大仏は当初、奈良ではなく、紫香楽宮の近くの甲賀寺(今の滋賀県甲賀市)に造られる計画であった。しかし、紫香楽宮の周辺で山火事が相次ぐなど不穏な出来事があったために造立計画は中止され、都が平城京へ戻るとともに、現在、東大寺大仏殿がある位置での造立が開始された。制作に携わった技術者のうち、大仏師として国中連公麻呂(国公麻呂とも)、鋳師として高市大国(たけちのおおくに)、高市真麻呂(たけちのままろ)らの名が伝わっている。天平勝宝4年の開眼供養会には、聖武太上天皇(既に譲位していた)、光明皇太后、孝謙天皇を初めとする要人が列席し、参列者は1万数千人に及んだという。開眼導師はインド出身の僧・菩提僊那が担当した。

○聖武天皇の発願により創建された東大寺の本尊(大仏さま)は「華厳経」の教主である盧舎那仏で、天平勝宝四年(752)四月に「大仏開眼供養会」が盛大に厳修されました。その後も講堂・東西両塔・三面僧房などの諸堂の造営は、延暦八年(789)三月の造東大寺司の廃止まで続行されました。

◇東大寺創建
○東大寺の創建及び大仏の造立に深く関われた聖武天皇・菩提僊那・良弁・行基の四人を四聖と言います。
〇盧舎那仏の名は、宇宙の真理を体得された釈迦如来の別名で、世界を照らす仏・ひかり輝く仏の意味。左手で宇宙の智慧を、右手に慈悲をあらわしながら、人々が思いやりの心でつながり、絆を深めることを願ってられます。
〇東大寺は国分寺として建立され、国家の安寧と国民の幸福祈る道場でしたが、同時に
仏教の教理を研究し学僧を養成する役目もあり、華厳をはじめ奈良時代の六宗(華厳・
三論・倶舎・成実・法相・律)、さらに平安時代の天台と真言も加えた各研究所(宗所)が設けられ、八宗兼学の学問寺となり、多くの学僧を輩出しました。
◇華厳の教え
〇「華厳経」には世界に存在するあらゆるものは、それぞれ密接な相関関係の上に成り立ち、秩序ある世界を形成していると説かれています。華厳教の教えを実現させてたいという聖武天皇の願いが、全国規模の国分寺及び国分尼寺を実現させてたいの建立にとどまらず大仏造立・東大寺創建へとつながっていったといえるでしょう。
○聖武天皇は、人々が思いやりの心でつながり、こどもたちの命が次世代に輝くことを真剣に考えられ、動物も植物も共に栄えることを願い、さらに造像にあたっては、広く国民に「一枝の草、ひとにぎりの土」の助援をよびかけられました。つまり、大仏殿の造立は政府の事業というばかりでなく、国民に結縁を求め、助力によって完成しようと
した点に、従来の国官大寺建立とは明らかに異なるものがあるのです。
いわゆる大衆を知識(協力者)として造立を果たそうとしたもので、東大寺では各時代の再興や修理にあたって実行され、現代に至るまで常に相承されています。
◇鎌倉期再建
○平安時代にも、修理と造営は絶え間なく続けられました。斉衡二年(855)の大地震によって落下した大仏の頭部は真如法親王によって修復されたものの、失火や落雷によって講堂や三面僧房、西塔などは焼失、南大門や大鐘楼も倒壊しました。
さらに治承四年(1180)、平重衡の軍勢により、大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼失してしまいます。
○しかし翌年には俊乗房重源によって復興に着手され、源頼朝の絶大な協力もあって文治元年(1185)に後白河法皇を導師として大仏の開眼供養が行われました。翌文治二年に周防国が東大寺造営料所に当てられてから復興事業が着々と進み、建久六年(1195)に大仏殿落慶供養が行われました。
◇江戸期再建
○ところが、永禄十年(1567)十月に、三好・松永の乱が起こり、伽藍は二月堂や法華堂、南大門や転害門、正倉院や鐘楼などわずかな建物を残して灰燼に帰してしまいました。時は戦国時代、本格的な復興は遅々として進まず公慶上人が活躍されるまでの約百二十年間、本尊盧舎那仏は雨ざらしの状態だったのです。公慶上人は十三歳で東大寺に入寺した決意を実現させるため、大変な苦労をされながら、ようやく江戸幕府の許可を得て、全国くまなく勧進行脚を実践され、まずは元禄五年(1692)の「大仏開眼供養」を執行されました。大仏殿の完成は上人の没後でしたが、十八世紀後半には中門・東西廻廊・東西楽門・両脇侍の巨象も造立され、現存の寺観が整えられました。

東大寺大仏殿付近の図
二月堂

二月堂は、東大寺金堂(大仏殿)の東方、坂道を上り詰めた丘陵部に位置する、十一面観音を本尊とする仏堂である。すぐ南には三月堂の通称で知られる法華堂がある。これらの堂が所在する一画を「上院」(じょういん)と称し、大仏開眼以前から存在した、東大寺の前身寺院があった場所である。
東大寺は治承4年(1180年)の平重衡の兵火と、永禄10年(1567年)の三好・松永の兵乱とにより創建時の建物の大部分を失っている。二月堂はこれらの兵火では類焼をまぬがれたが、寛文7年(1667年)、修二会の満行に近い2月13日に失火で焼失。現存する二月堂はその直後の寛文9年(1669年)、江戸幕府の援助を得て、従前の規模・形式を踏襲して再建されたものである。
二月堂の名は、このお堂で修二会(しゅにえ)が旧暦の2月に行なわれることから起こっている。良弁(ろうべん)僧正の高弟実忠(じっちゅう)の草創と伝えるが、寛文7年(1667)の修二会中に堂内から出火、焼失し、現在の建物はその2年後に再建された。創建当初の建物は小規模のものであったらしく、時代を経るにつれ、修二会の行法に合わせて増築されたようである。音響効果といい、内陣・外陣・礼堂などの間取りといい、行法を行なうのにまことにふさわしい建物になっている。
東大寺二月堂



東大寺三月堂=三月堂
『東大寺要録』によれば、天平5年(733〜747)から天平19年までの創建と考えられている東大寺最古の建物である。不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)を本尊とするところから古くは羂索堂と呼ばれていたが、毎年3月に法華会(ほっけえ)が行なわれたことから、のちに法華堂と呼ばれるようになった。後方(左側・北側)の正堂と前方(右側・南側)の礼堂と二つの部分からなっており、当初は双堂形式の建物であったが、現在の礼堂部分は正治元年(1199)に重源上人によって新造されたものである。東大寺の前身である金鍾山寺の主要伽藍がらんのひとつで、このお堂で華厳経が日本で初めて講義されたともいわれている。堂内の仏像群は、天平文化のきらびやかさを想起させる


四月堂
かつて旧暦の4月に法華経に由来する法華法華三昧会(ほっけさんまいどう)が行なわれたことから、四月堂の通称がある。古くは普賢堂、普賢三昧堂とも呼ばれ、普賢菩薩が本尊だった時代もあり、堂内には小像ながら平安期の普賢菩薩騎象像を安置。法華経を信仰する者のところに、白い象に乗って現れる姿を表しており、御堂の由緒を偲ばせる。
平安時代の治安元年(1021)に創建されたとの記録が残るが、治暦3年(1067)の説もある。現在の建物は方三間の二重寄棟造であり、化粧裏板の墨書から江戸中期、延宝9年(1681)の建立と分かるが、随所に鎌倉期に遡ると目される古材が用いられ、重要文化財に指定されている。堂内には十一面観音像や阿弥陀如来像(いずれも重要文化財)など、平安期の仏像も安置されている。




南大門

東大寺大仏殿全景

東大寺大仏

二月堂

三月堂 (法華堂)

四月堂

東大寺大仏殿御朱印