更新:2016年12月14日


広沢池


 広沢池(ひろさわのいけ)は、京都市右京区の嵯峨広沢町にある周囲1.3kmほどの池である。日本三沢の一つにも数えられる。別名遍照寺池(へんしょうじのいけ)とも呼ばれる。2010年(平成22年)3月25日に農林水産省のため池百選に選定された。
1969年に古都保存法の歴史的風土特別保存地区に指定されている。池の西側には池へ突き出るような形の小さな島があり、観音島と呼ばれ、橋が架けられている。島の内部には石像の千手観音が祭られ、先端には弁天堂もある。現在は鯉の養殖が行われている。
平安時代の中期、989年(永祚元年)に遍照寺の建立にあわせ庭池として本堂の南に造営されたとも言われている。異説として、嵯峨野一帯を開墾した渡来系豪族の秦(はた)氏一族が溜池として造ったとも言われている。
平安時代に作られた池は、遍照寺と共に廃れて行ったが明治時代に、地元の人々の協力で修復された。
 毎年 12月頃池の水をだし2月頃水をいれている。鯉は4月頃いれて
池を干すときにとりだし、京都の料亭にだしているとのことである。

歴史年表 奈良時代(8世紀)、嵯峨野を開拓した渡来系氏族・秦氏の支族が、池を開削したという。支族は、朝原(あさはら)山の名により、朝原を姓と称したという。(『続日本紀』766年の条)
 また、平安時代、989年、第59代・宇多天皇の孫で真言宗の僧・寛朝(かんちょう、916- 998)僧正が、朝原山の麓の山荘を改めて寺院にした。寺名を遍照寺(へんじょうじ)といい、その際に開削した池ともいう。池は、遍照寺池と呼ばれたという。朝原山は、嵯峨富士、遍照寺山とも呼ばれた。池には金色の観世音菩薩を祀る観音島があり、橋が架けられ、観月の名所となっていた。畔に多宝塔、釣殿、大覚寺の観月所だった潜竜亭が建てられていた。 寛朝没後、寺は次第に衰微する。
 鎌倉時代、第91代・後宇多天皇により復興された。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により再び荒廃した。
 現代、1955年、嵯峨用水により、清滝川の水がトンネルにより広沢の池にも流入するようになった。このため、周辺の灌漑用水不足が解消され、南側の農地では、いまも京野菜、水稲などが耕作されている。
 一条通りから池を眺めていると、対岸にも紅葉や建物が。
これは宗教団体・世界救世教の施設で「平安郷」。
数寄屋風の建物は中の茶屋だそうですが、見事な庭だそう。
毎年春と秋に一般公開されます。


 






     
 冬の広沢池 2015/12/3撮影   冬の広沢池 2015/12/3撮影
     
 冬の広沢池 2015/12/3撮影   冬の広沢池  2015/12/3撮影
     
 冬の広沢池 2009/2/18撮影    冬の広沢池 2009/2/18撮影
     
夏の広沢池  2016/6/12撮影   夏の広沢池  2016/6/12撮影