鹿児島県の薩南諸島を除く南西諸島の島々(沖縄諸島・先島諸島・大東諸島)から構成されており、東シナ海と太平洋に挟まれている。面積は2,281㎢と香川県・大阪府・東京都に次いで小さく、また、人の居住する日本最南端の地域を含む県でもある[注 1]。
県民の約9割が沖縄本島に集中しており、行政上は沖縄本島とそれ以外の離島とに分けられる場合がある。
ほぼ全域が亜熱帯気候であり、一部は熱帯に属する。年間を通して温暖な気候であり、最高気温と最低気温の差も小さく標高の高い山も存在しないため氷点下になることもない。
海上輸送路(シーレーン)および軍事的要地(第一列島線)として重要な場所に位置し、多数の在日米軍基地が存在する。主な米軍施設として、嘉手納飛行場・普天間飛行場・キャンプ・バトラー等が存在する。
与那国島は日本最西端の領土であり、八重山郡与那国町は日本の最西端の地方自治体でもある。また離島を含む日本の東西南北端の中で唯一自由に訪れることができる場所である。
尖閣諸島は同県石垣市に属しており日本が実効支配している日本固有の領土だが、中華人民共和国および中華民国(台湾)は尖閣諸島(あるいは沖縄県全土)の領有権を主張している。(中華民国による沖縄県への認識、中国人による沖縄県への認識、および「尖閣諸島問題」を参照)。
琉球王国時代に編纂された「中山世鑑」によると、保元の乱で敗れ伊豆に流された源為朝が追手から逃れるため沖縄本島(運天港)に渡り、その子が初代琉球国王舜天になったとされており、正史として扱われている。12世紀か13世紀頃には三山王国(北山、中山、南山)が勃興し、中国(明)に朝貢し冊封を受け琉球貿易を行っていた(グスク時代)。1429年に中山王尚巴志が南山と北山を滅ぼし、琉球王国を建国した(第一尚氏)。1469年に尚徳王の家臣であった金丸が王位を簒奪し、自らを尚円王と号し即位した(第二尚氏)。周辺の先島諸島や奄美群島にも版図を拡げるが、1609年(慶長14年)に薩摩藩の侵攻を受け尚寧王は降伏、当時王国の支配下にあった奄美群島は薩摩藩に割譲[注 2]、王国は薩摩藩の支配下におかれた(琉球侵攻)。薩摩による侵攻以降も王国は中国の冊封を受け続け、日本の薩摩藩と清国に『両属』する体制となっていたが鎖国体制下の両国の中継貿易地としての役割を担い、交易を通じて独自の文化と自治を保っていた。
近代に入り日本本土で明治維新がおこり開国したことを受け、1871年(明治4年)9月に日清修好条規が締結され清との間に外交関係が樹立された。しかし、その約1ヶ月後となる同年10月に宮古島島民遭難事件が発生、明治政府は外交対処のために中央集権国家の確立を急ぎ、1872年(明治5年)、琉球藩が設置され、琉球国王の尚泰を「琉球藩王」に封じて東京に藩邸を置いた。福島外務卿による清との交渉後、1874年(明治7年)に台湾出兵となり、日本の航客に危害を加えないなどの統括権などがイギリス大使の調停による事後処理条約で確認され、清との外交事件が帰着した。1879年4月4日(明治12年)、明治政府は琉球藩を廃して沖縄県を設置、尚泰は東京の藩邸に居を移し華族となる。グスク時代の城跡遺跡は『琉球王国のグスク及び関連遺産群』としてユネスコの世界遺産に登録されている。
1945年(昭和20年)、太平洋戦争では『唯一の地上戦』と呼ばれる[注 3]沖縄戦の戦場となった。米軍は4月1日に沖縄本島の読谷村の海岸に上陸、瞬く間に島の北半分を制圧、日本軍は米軍の総攻撃を受け南部に追い込まれ、総司令部が置かれていた首里城も焼け落ち、6月23日に沖縄守備軍最高指揮官の牛島満中将らが摩文仁で自決したことで組織的戦闘は終結した。約3カ月に及ぶ激戦により県民の4人に1人が犠牲になり土地も荒廃した。現在、摩文仁は沖縄戦跡国定公園に指定されており、6月23日は慰霊の日として沖縄県の休日となっている。
戦後、南西諸島は米軍の占領下におかれ、日本の施政権は停止、沖縄県は実体としては一旦消滅した(アメリカ合衆国による沖縄統治)。米軍主導のもと新たに『琉球政府』が誕生、基地建設のため集落や農地を大規模に接収し、右側通行の道路を整備し、通貨としてB円、後に米ドルを使用させ、日本本土への渡航にパスポートが必要になるなど、米国流のやり方で戦後復興が進められていった。1952年(昭和27年)にGHQの占領下にあった日本が主権回復した後も沖縄は引き続き米軍の統治下におかれた。1950年代以降になると朝鮮戦争やベトナム戦争が勃発し、沖縄は米軍の前線補給基地として重要度を増し、数多くの米軍人が駐留、B-52等の戦略爆撃機や枯葉剤や核兵器といった大量破壊兵器が多数配備され、ベトナムからは『悪魔の島』と恐れられた。経済は基地に大きく依存していた一方で、当時ドル高円安の固定相場制の影響もあり物価は安く生活は安定しており、人口は終戦直後の約50万人から本土に復帰するまでのわずか27年間で約100万人に倍増した。しかし米軍による強権的・差別的な施政に島民は強い反感を抱き、本土への復帰を求める大規模な反基地運動が各地で展開されていった(島ぐるみ闘争)。1971年(昭和46年)に佐藤栄作首相とリチャード・ニクソン大統領との間で沖縄返還協定が締結され、翌1972年(昭和47年)に沖縄は日本に施政権が返還され沖縄県が復活した(沖縄返還)。米軍統治時代から続く基地問題や不発弾の問題、日米地位協定の問題は県の主要な政治課題となっている(「普天間基地移設問題」を参照)。
上記の歴史的経緯から文化・風習・人名・方言・料理・産業・人口構成・制度的にも主要四島(「本土」)のそれとは大きく異なり、俗に県外のことを「内地(ナイチ)」、県民以外の人を「内地人(ナイチャー)」と呼び分ける場合がある。
日本屈指のリゾート地であり、文化体験・沖縄料理・レジャー・マリンスポーツ・戦争遺跡などを強みに観光分野に特に力を入れており、観光業を含む第三次産業が79.2%を占めている一方で第一次産業は5.4%、第二次産業は15.4%と低調である。
また格闘技界においては空手の発祥の地(琉球唐手)として世界的に有名であり、多数の外国人門下生が県内の空手道場に入門し稽古している。ボクシングにおいては石垣市出身の具志堅用高を始めとして数多くの世界王者、名選手を輩出している。




平和の礎

斎場御獄

那覇

首里城公園

 

沖縄IT津梁パーク

     
 

かでな

     
 

琉球村

     
 

沖縄黒糖

     
 

座喜味城址

     
 

美ら海水族館

     
 

古宇利大橋