更新:2015年12月21日

高台寺
高台寺(髙臺寺、こうだいじ)は、京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は鷲峰山(じゅぶさん)。本尊は釈迦如来。寺号は詳しくは高台寿聖禅寺と称する。豊臣秀吉の正室である北政所が秀吉の冥福を祈るため建立した寺院であり、寺号は北政所の落飾(仏門に入る)後の院号である高台院にちなむ。禅宗寺院であるとともに、秀吉と北政所を祀る霊廟としての性格を持った寺院である。元々は黄金八丈の阿弥陀如来像(大仏)を安置する雲居寺の境内であった。

霊屋(おたまや)の堂内装飾には桃山様式の蒔絵が用いられ、これを「高台寺蒔絵」と呼ぶ。他に北政所所持と伝えられる蒔絵調度類を多数蔵することから「蒔絵の寺」の通称がある。夜間拝観を京都で最初に行い始めた寺院である。

鷲峰山 高台寺
 高台寺は正式名称を「鷲峰山高台寿聖禅寺」という。
慶長十一年(1606)に豊臣秀吉の菩提を弔うため、正室であった北政所ねねが祈願し、徳川家康が酒井忠正や土井利勝に命じて、この地にあった岩栖院などを移し、雲居寺の跡地を整備して創建された。北政所、秀吉の死後に出家した際、後陽成天皇より、「高台院」という号を賜った。それに因んで高台寺と名づけられた。
寛永元年(1624)北政所没したあとも、伽藍の整備進められ、北政所の住居跡を永興院、木下家の居館であった跡を圓徳院と名付け、高台寺の塔頭とした。そして天明年間(1781~1798)には九つの塔頭と洛中には四つの末寺を持ち、興隆を極めた。
 特に、伏見城から移築された大方丈・小方丈は、狩野永徳、渡辺了慶、土佐光信などが描いた襖絵をはじめ、いたるところに蒔絵・彩色が施された豪華な建物であったが、江戸時代・近代の度重なる火災により、多くの堂宇共に焼失、また明治の廃仏毀釈などにより境内地は縮小され、現代に至る。大正元年(1912)に再建された方丈には、宝冠をつけた本尊釈迦如来如来坐像を安置している。
創建時からの建造物は「表門」「開山堂」「霊屋」「時雨亭」「傘亭」「観月台」で、いずれも国指定重要文化財、また庭園は、国指定史跡・名勝庭園に指定されている。
 霊屋の堂内装飾には、桃山様式の蒔絵が用いられ、「高台寺蒔絵」と呼ばれている。⇒高台寺のパンフレットより

歴史
豊臣秀吉の没後、正室の北政所は慶長8年(1603年)に後陽成天皇から「高台院」の号を勅賜されると、秀吉の菩提を弔おうと寺院の建立を発願し徳川家康もその建立を支援した。高台寺の創建地は、元々は黄金八丈の阿弥陀如来像(大仏)を安置する雲居寺の境内であったが、応仁の乱で焼失していた。

家康と高台院は、現在高台寺や塔頭・圓徳院があるこの地にあった岩栖院を南禅寺の境内に塔頭として移転させると、慶長10年(1605年)に高台院は実母である朝日局が眠る康徳寺(現・上京区上御霊馬場町にあった)をこの地に移転させて新たな寺院・高台寺を建立し、その境内を整えていった。また、高台院は高台寺の西側に自らの屋敷と甥の木下利房の屋敷を造営することとし、同年に伏見城にあった北政所化粧御殿とその前庭を移築して自らの邸宅・高台院屋敷とした。

秀吉没後に権力者となった徳川家康は高台院を手厚く扱い、普請奉行に京都所司代の板倉勝重を任命するなど、配下の武士たちを高台寺の普請に当たらせている。中でも普請掛・堀直政の働きは大きかったようで、高台寺の開山堂には直政の木像が祀られている。

慶長11年(1606年)、高台寺は曹洞宗の弓箴善彊を開山として完成した。創建当時の高台寺の仏殿は康徳寺の堂を移築・改造したものであるが、方丈や茶室などは伏見城から移築したものであった。

慶長20年(1615年)の大坂夏慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の際には、伏見城から移した茶室「時雨亭」(重要文化財)の2階から高台院は燃え落ちる大坂城の天守を見つめていたという。

寛永元年(1624年)7月、高台寺は臨済宗建仁寺派の大本山である建仁寺の三江紹益を中興開山に招聘し、曹洞宗から臨済宗に改宗している。高台院の兄・木下家定は建仁寺及び三江紹益と関係が深く、家定の八男・周南紹叔が三江紹益のもとで出家していることもこの改宗と関連するといわれる。

なお高台院屋敷は、同年9月6日に高台院が屋敷で亡くなった後、寛永9年(1632年)に木下利房によって三江紹益を開山として高台寺の塔頭・圓徳院に改められた。以降は木下家の菩提寺となっている。

寛政元年(1789年)2月9日、高台寺で火災が発生し小方丈や庫裏などが焼失した。そこで、寛政7年(1795年)に圓徳院にあった北政所化粧御殿を高台寺の小方丈にするために解体、移築が行われた。圓徳院には代わりとして新たに北書院が建立されている。しかし、小方丈となった北政所化粧御殿は文久3年(1863年)7月26日に、高台寺が松平春嶽の宿舎に予定されたことに反感を持った討幕派の志士らにより放火されて焼失している。

慶応3年(1867年)3月に伊東甲子太郎一派が新選組から離脱した後、6月に高台寺の塔頭・月真院に入って屯所とした。伊東一派は孝明天皇陵(後月輪東山陵)を守るためと称して禁裏御陵衛士と名乗り、高台寺党と呼ばれたが、11月に起こった油小路事件で壊滅した。

近世末期から近代に至る数度の火災で仏殿や方丈などを焼失し、創建時の建造物で現存しているのは、三江紹益を祀る開山堂、秀吉と高台院を祀る霊屋(おたまや)、茶室の傘亭と時雨亭だけである。

1998年(平成10年)に高台寺掌美術館(しょうびじゅつかん)が開館している。

2019年(平成31年)には教化ホールに「アンドロイド観音」が安置された。

境内

方丈前庭、勅使門

開山堂

霊屋
創建当時存在した仏殿は焼失後再建されておらず、方丈が中心的な堂宇となっている。方丈の西に庫裏があるが創建当時のものではない。境内東側には偃月池・臥龍池という2つの池をもつ庭園が広がり、開山堂、霊屋、茶室などが建つ。また、境内からやや離れて表門が建つ。

方丈 - 本堂。1912年(大正元年)再建。創建当初の方丈は文禄の役後に伏見城の建物を移築したものであった。庫裏の右手に建つ。
方丈前庭「波心庭(はしんてい)」
勅使門 - 1912年(大正元年)再建。方丈とともに再建された。方丈の南正面に位置する。
唐門
庫裏 - 拝観順路入口に位置する。内部には寺務所がある。玄関から垣間見える「夢」と書かれた衝立が印象的である。
小方丈跡 - 当初の小方丈が焼失した後、寛政7年(1795年)に塔頭・圓徳院にあった北政所化粧御殿を移築して小方丈にしていたが、文久3年(1863年)7月26日に放火で焼失した。その後、1913年(大正2年)に北書院が建てられていたが近年解体され、現在小方丈の再建が予定されている。
茶室「遺芳庵」 - 方丈の背後にある田舎屋風の茶室で、近世初期の商人で趣味人であった灰屋紹益が夫人の吉野太夫を偲んで建てたものという。一畳台目の小規模な茶席で、炉は逆勝手向切りとする。吉野窓と称する、壁一杯に開けられた丸窓が特色である[1]。京都市上京区にあった紹益の旧邸跡から1908年(明治41年)に移築したもの。建築様式の点から、紹益と吉野太夫が生きた近世初期まではさかのぼらず、後世の人が2人を偲んで建てたものと推定されている[2]。
茶室「鬼瓦席」 - 四畳半の茶室。遺芳庵と同様、紹益の旧邸跡から1908年(明治41年)に移築したもので、同様に紹益と吉野太夫を偲んで後世の人が2人を偲んで建てたものと推定される。
茶室「湖月庵」[3]
開山堂(重要文化財) - 慶長10年(1605年)に高台院により建立。寛永2年(1625年)に増築。庭園内に建つ入母屋造本瓦葺きの禅宗様の仏堂。元来、高台院の持仏堂だったもので、その後、中興開山の三江紹益の木像を祀る堂となった。堂内は中央奥に三江紹益像、向かって右に高台院の兄・木下家定とその妻・雲照院の像、左に高台寺の普請に尽力した堀直政の像を安置している。この堂の天井は豊臣秀吉の御座舟の天井と、高台院の御所車の天井を用いたものという。天井画の「龍図」は狩野山楽の作である。
庭園(国指定史跡・名勝) - 小堀遠州作とされ、シダレザクラと萩の名所。石組みの見事さは桃山時代を代表する庭園として知られる。

高台寺の境内図