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浅草寺

浅草寺(せんそうじ)は、東京都台東区浅草二丁目にある都内最古の寺で、正式には金龍山浅草寺(きんりゅうざんせんそうじ)と号する。聖観世音菩薩を本尊とすることから、浅草観音(あさくさかんのん)として知られている。山号は金龍山。
元は天台宗に属していたが、昭和25年(1950年)に独立して聖観音宗の本山となった[1]。都内では、坂東三十三箇所観音霊場唯一の札所(13番)、また江戸三十三箇所観音霊場の札所(1番)でもある。全国有数の観光地であるため、正月の初詣では毎年多数の参拝客が訪れ、参拝客数は常に全国トップ10に入っている。

歴史
時は飛鳥時代、推古天皇三十六年(628)3月18日の早朝、檜前浜成・竹成の兄弟が江戸浦(隅田川)漁撈中、はからずも一躰の観音様のご尊像を感得した。郷司土師中知(名前には諸説あり)は聖観世音菩薩さまであることを知り深く帰依し、その後出家、自宅を改めて寺となし、礼拝供養に生涯を捧げた。大化元年(645)勝海上人がこの地においでになり、観音堂を建立し、夢告ご本尊をご秘仏と定められ、以来今日までこの伝法の掟は厳守されている。
広漠とした武蔵野の一画、東京湾の入り江の一漁村にすぎなかった浅草は参拝の信徒が増すにつれ発展し、、平安初期には慈覚大師円仁さま(794~864、浅草寺中興開山・比叡山第三世天台座主)が来山され、お前立のご本尊を謹刻された。
 鎌倉時代に将軍の篤い帰依を受けた浅草寺は、次第に外護者として歴史上有名な武将らの信仰をも集め、伽藍の荘厳はいよいよ増した。江戸時代の初め、徳川家康公によって幕府の祈願所と定められてからは、堂塔の威容さらに整い、江戸文化の中心として繁栄したのである。都内最古の寺院である浅草寺は、浅草観音の名称で全国的に親しまれ、現在年間3000万人もの参拝者が訪れる、民衆信仰の中心になっている。
                浅草寺のパンフレットから



創建 - 平安時代
『浅草寺縁起』等にみえる伝承によると、浅草寺の創建の由来は以下の通りである。 飛鳥時代の推古天皇36年(628年)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像である。この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも 、「土師真中知」(はじのまなかち)[3]とも)は出家し、自宅を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりという。その後大化元年(645年)、勝海という僧が寺を整備し観音の夢告により本尊を秘仏と定めた。観音像は高さ1寸8分(約5.5センチ)の金色の像と伝わるが、公開されることのない秘仏のためその実体は明らかでない。平安時代初期の天安元年(857年。天長5年(828年)とも)、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)の観音像を造ったという。これらを機に浅草寺では勝海を開基、円仁を中興開山と称している。天慶5年(942年)、安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に七堂伽藍を整備したとの伝えがあり、雷門、仁王門(現・宝蔵門)などはこの時の創建といわれる。

一説に、本尊の聖観音像は、現在の埼玉東京の県境に近い飯能市岩淵にある成木川沿いにある岩井堂に安置されていた観音像が大水で流されたものとする伝承がある。浅草寺創建より100年程前に、岩井堂観音に安置されていた観音像が大雨によって堂ごと成木川に流され、行方不明になったという。成木川は入間川、荒川を経て隅田川に流れており、下流にて尊像発見の報を聞いた郷の人々が返還を求めたが叶わなかったという。

中世 - 近世

「吾妻橋金龍山遠望」(歌川広重『名所江戸百景』より)
浅草寺の文献上の初見は鎌倉時代の『吾妻鏡』である。同書によれば、治承5年(1181年)、鎌倉の鶴岡八幡宮造営に際し、浅草から宮大工を呼び寄せている。また、建久3年(1192年)、鎌倉の勝長寿院で後白河法皇の四十九日法要が営まれた際、浅草寺の僧が参加している。後深草院二条の『とはずがたり』には、彼女が正応3年(1290年)浅草寺に参詣した時の様子が描写されている。

天正18年(1590年)、江戸に入府した徳川家康は浅草寺を祈願所と定め、寺領五百石を与えた。浅草寺の伽藍は中世以前にもたびたび焼失し、近世に入ってからは寛永8年(1631年)、同19年(1642年)に相次いで焼失したが、3代将軍徳川家光の援助により、慶安元年(1648年)に五重塔、同2年(1649年)に本堂が再建された。このように徳川将軍家に重んじられた浅草寺は観音霊場として多くの参詣者を集めた。

貞享2年(1685年)には、表参道に「仲見世」の前身である商店が設けられた。これは、寺が近隣住民に境内の清掃を役務として課す見返りに開業を許可したものである。江戸時代中期になると、境内西側奥の通称「奥山」と呼ばれる区域では大道芸などが行われるようになり、境内は庶民の娯楽の場となった。天保13年(1843年)から翌年にかけて、江戸三座の芝居小屋が浅草聖天町(猿若町、現・台東区浅草六丁目)に移転し、そうした傾向はさらに強まった。

近代

1809

明治末期の仲見世

関東大震災直後。仲見世は全焼したが、境内は被害を免れた。
浅草は近代以降も庶民の盛り場、娯楽場として発達し浅草寺はそのシンボル的存在であった。明治6年(1873年)には境内が公園地に指定され(浅草公園)、明治18年(1885年12月27日)には表参道両側の「仲見世」が近代的な煉瓦造の建物に生まれ変わった。明治23年(1890年)には商業施設と展望塔を兼ねた12階建ての「凌雲閣」(通称「浅草十二階」)が完成している。

大正6年(1917年)からは日本語の喜歌劇である「浅草オペラ」の上演が始まり、映画が普及する以前の大衆演劇として隆盛した。関東大震災では浅草区は大半が焼失する被害にもかかわらず、浅草寺では地元の鳶職の親方が境内の避難民を指揮してバケツリレーによる防火作業を行った結果、一部建築物が延焼するだけの被害で済んでいる。しかし昭和20年(1945年)3月10日、東京大空襲で旧国宝の本堂(観音堂)、五重塔などが焼失。第二次世界大戦後の浅草は、娯楽の多様化や東京都内の他の盛り場の発展などによって一時衰退した。しかし、地元商店街のPR活動等によってかつての賑わいを取り戻しつつあり、下町情緒を残す街として東京の代表的な観光地となっており、羽子板市、ほおずき市などの年中行事は多くの人出で賑わっている。

2023年9月16日にいった。今日は土曜日で人がすごく多かった。
いったのは新宿から大江戸線にのり、蔵前で降りて銀座線で雷門までいった。大江戸線の蔵前から銀座線の蔵前までは大分距離があった。一旦地上にでて、銀座線に乗り換えなければならなかった。円安で欧米人はたのしく買い物などを楽しんでいるように思えた。
尚伝法院は工事中でみられなかった。

 
境内図
 
本堂(観音堂)

雷門(風雷神門)


宝蔵門(旧称 仁王門)

影向堂

薬師堂

五重塔

鎮護堂

仲見世を歩く人々