更新:2020年1月28日

  原谷(はらだに)は、 京都市北区大北山原谷乾町(おおきたやまはらだにいぬいちょう)を中心とする地域の名称である。 原谷地域は衣笠山の北側、鹿苑寺(金閣寺)の北西およそ1.2kmに位置し、四方を山に囲まれた大北山域の盆地にある。総面積は約0.55km²(55町4反)。小道を経て、鷹峯や御室仁和寺にも通じる。ほぼ全域が北区に属するが、右京区にも一部またがっている。 原谷地域は平均標高220m前後の山間盆地で、原谷川の最上流域にあたる。西から東へ傾斜する緩やかな谷底面が発達するものの、宅地開発により原地形は不明瞭となった。西端は井手口川によって比高約20mもの谷が刻まれ、急崖をなしている。これは、西南側から侵食した井手口川に原谷川の最上流部が奪われて無能河川となり、幅広い段丘状の谷底面が残る河川争奪が生じたものとみられる。この谷底面は、風化した厚さ20m以上の砂礫層から構成され、鷹峯台地の高位段丘面に続く。また、谷底面の西は井手口川の上流域から、高鼻川との分水界にまで延長している古代より葬送の地として知られる蓮台野(れんだいの)、衣笠山、宇多野と呼ばれた山野の外側にある原谷地域は、京都の中心からほど近くに位置しながらも、歴史の表舞台に登場することはなかった。
当地で祀られる「原谷弁財天」の縁起には、 壇ノ浦の戦いに破れた平家一門が、都に近い当地に落ち延びた旨を記載し、その後400年の間に水田8反歩(約7,933m²)、畑3町歩(約29,752m²)を開墾したものの、後に住民が次々と離れ、過疎地帯になったとしている。
京野菜の辛味大根は、元来原谷大根と呼ばれており、元禄年間(1688年 - 1704年)までに、当地で栽培されていたとされる。当地は近世までは葛野郡大北山村の一部であったが、1889年(明治22年)に周辺各村が合併して衣笠村の一部となった。同年に発行された陸軍部測量局「明治京都中部実測図」では、衣笠山官有地の北方に、鷹峯、宇多野、そして金閣寺西側へ伸びる小道とともに字原谷の文字が記載されている。なお、この地図を含め、昭和初期までに発行された地図からは、当地内に集落の存在を確認することはできない。 。

原谷苑のご案内(村岩農園のさくら苑)

原谷苑は、金閣寺より衣笠山を、御室より八十八か所の山を越えた洛北原谷の不毛の土地を、戦後の原谷開拓団の方より依頼を受けて、昭和32年から花好きの村岩二代目が、景色の良い丘を選び数百本の桜や桜や紅葉数十種類の樹木を植樹したことに始まります。当初は親類・友人等の身内だけでお花見をしておりましたが、人伝いに評判がひろがり、現在は桜・梅・紅葉シーズン中一般公開しております。例年3月下旬から4月下旬にかけて二十数種類の桜を中心に椿・日向みずき・吉野つつじ・馬酔木・木瓜・雪柳・石楠花ほか色々な花が楽しめます。京都市内の桜が満開のころには、早咲き枝葉桜が満開となり、遅咲きで有名な御室桜が終わったころでもまだ原谷苑では、散り始め八重紅垂桜ともに遅咲きの黄桜・緑桜・牡丹桜・普腎桜など名残の桜見を楽しんで頂けます。(村岩)では北山台杉・桜・もみじその他の樹木類と、茶室等の建築に使用される北山丸太・苗木を販売いたしております。
原谷苑の公式HP

2010/4/18原谷苑に行く。御室まで山を越えて歩いて行った。
苑内案内図


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