2020年10月22日更新

永観堂 は正式には 「禅林寺」 という浄土宗西山禅林寺派の総本山です。 853年に平安時代の僧侶空海の弟子が藤原関雄の山荘を譲り受けたのが始まりです。
禅林寺(ぜんりんじ)は、京都市左京区にある浄土宗西山禅林寺派総本山の寺院。通称の永観堂(えいかんどう)の名で知られる。山号を聖衆来迎山(しょうじゅらいごうさん)と称する。紅葉の名所として知られ、古くより「秋はもみじの永観堂」といわれる。また、京都に3箇所あった勧学院(学問研究所)の一つでもあり、古くから学問(論義)が盛んである。
空海(弘法大師)の高弟である真紹僧都が、都における真言の道場の建立を志し、毘盧遮那仏と四方四仏を本尊とする寺院を建立したのが起源である。真紹は仁寿3年(853年)、歌人・文人であった故・藤原関雄の山荘を買い取り、ここを寺院とすることにした。当時の京都ではみだりに私寺を建立することは禁じられており、10年後の貞観5年(863年)、当時の清和天皇より定額寺としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜わって公認の寺院となった。
空海(弘法大師)の高弟である真紹僧都が、都における真言の道場の建立を志し、毘盧遮那仏と四方四仏を本尊とする寺院を建立したのが起源である。真紹は仁寿3年(853年)、歌人・文人であった故・藤原関雄の山荘を買い取り、ここを寺院とすることにした。当時の京都ではみだりに私寺を建立することは禁じられており、10年後の貞観5年(863年)、当時の清和天皇より定額寺としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜わって公認の寺院となった。

当初真言の道場として出発した禅林寺は、中興の祖とされる7世住持の永観(ようかん)律師(1033年 - 1111年)の時に念仏の寺へ変化を遂げる。永観は文章博士の源国経の子として生まれた。11歳で禅林寺の深観(花山天皇皇子)に弟子入りし、東大寺で南都六宗のうちの三論宗を学ぶ。三論宗には奈良時代の智光以来の浄土教の思想があるが、浄土の教えに感動した永観はやがて熱烈な阿弥陀信者となり、日課一万遍の念仏を欠かさぬようになる。師深観の跡を受けて禅林寺に戻るのは延久4年(1072年)のことである。永観は人々に念仏を勧め、また、東五条の悲田院の近くの薬王寺に阿弥陀像を安置して、病人救済などの慈善事業も盛んに行なった[2][3]。禅林寺を永観堂と呼ぶのは、この永観律師が住したことに由来する。なお、「永観堂」は漢音読みで「えいかんどう」と読むが、永観律師の「永観」は呉音読みで「ようかん」と読む[4]。

禅林寺の本尊阿弥陀如来立像は、顔を左(向かって右)に曲げた特異な姿の像である。この像については次のような伝承がある。永保2年(1082年)、当時50歳の永観が日課の念仏を唱えつつ、阿弥陀如来の周囲を行道していたところ、阿弥陀如来が須弥壇から下り、永観と一緒に行道を始めた。驚いた永観が歩みを止めると、阿弥陀如来は振り返って一言、「永観遅し」と言ったという。本寺の阿弥陀如来像はそれ以来首の向きが元に戻らず、そのままの姿で安置されているのだという。

禅林寺12世の静遍僧都(1166年 - 1224年)は、もと真言宗の僧で、当初は法然を批判していたが、後に法然に帰依して念仏門に入った。法然は禅林寺に住したことはないが、静遍は禅林寺11世を法然に譲り、自らは12世を称した[6][7]。法然の高弟の証空(西山上人)も、静遍の後を嗣いで当寺に住持したと伝えられている[8]。証空の門弟の浄音の時代に、禅林寺は浄土宗西山派(小坂流)の有力寺院となり、浄音が興した西谷(せいこく)流の拠点の一つとして光明寺とともに栄えた。

明治9年(1876年)には禅林寺は浄土宗西山派の東本山となる。だが、大正8年(1919年)に浄土宗西山派はそれぞれの考えの違いから浄土宗西山光明寺派(西山浄土宗)、浄土宗西山禅林寺派、浄土宗西山深草派の三つにわかれた。

永観堂ホームページ

永観堂の御朱印


永観堂境内案内図


2021年11月16日永観堂にいった。東福寺のような真っ赤に燃える紅葉を想像していたがそうではなかった。11月23日ごろいけば紅葉ももっと赤くなっていたのではと
思われる。
拝観は通常600円のところ1000円であった。これは中に入って色々なものをみていただくためと関係者は説明していた。私は永観堂は初めてであり、地下鉄東西線の蹴上駅から歩いていった。蹴上駅から地上にでると進行方面に向かって左側にねじりまんぼうがあり、そこをぬけていくと東山中高があり、南禅寺もある。南禅寺を右折していくと永観堂にでる。