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千本釈迦堂 大報恩寺
大報恩寺(だいほうおんじ)は、京都市上京区にある真言宗智山派の寺院。山号は瑞応山(ずいおうざん)。本尊は釈迦如来。千本釈迦堂と通称される。霊宝殿は新西国三十三箇所第16番札所で本尊は六観音である。おかめの物語や、12月の風物詩である大根焚きで知られる。また、智積院能化の隠居所として護持された。
鎌倉時代初期の承久3年(1221年)、求法上人義空によって創建された。義空は藤原秀衡の孫で、比叡山で修行の後、当寺を建立した。室町時代の勧進状によれば、「猫間中納言」と呼ばれた藤原光隆の従者であった岸高なる人物が境内地を寄進したという。当初は草堂であったが、摂津国尼崎の材木商から寄進を受けて現存する本堂が完成した。1951年(昭和26年)、本堂解体修理時に発見された義空の願文により、本堂は安貞元年(1227年)の上棟であることが判明している。『徒然草』228段には「千本の釈迦念仏は文永の比(ころ)如輪上人これを始められけり」と、当寺に言及されている(文永は1264年 - 1275年)[2]。

本堂の建立に関して大工の妻の「おかめ」に関する伝説が伝えられている(後述)。倶舎(くしゃ)・天台・真言の三宗兼学を朝廷より許された。この本堂は応仁・文明の乱にも焼けることはなかった創建当時のもので、洛中最古の現存建造物で国宝となっている(「京都市内」最古の建造物は醍醐寺五重塔)。

大報恩寺には近隣の北野社(北野天満宮)境内にあった「北野経王堂」の遺物も保管されている。足利義満は明徳の乱(山名氏清の乱)の戦没者と氏清を悼んで、乱の翌年の明徳3年(1392年)、法華経一万部を読誦する北野万部経会を創始し、応永8年(1401年)に北野経王堂願成就寺を建立した。

経王堂は文安元年(1444年)の文安の麹騒動で北野社と共に焼け落ちたが、慶長10年(1605年)に豊臣秀頼が片桐且元を奉行として北野社を復興した際に、共に再建されている。しかし、寛文11年(1671年)には老朽化のために規模を縮小されて改築されている。さらに、明治時代となって神仏分離令が出されると、北野天満宮にある仏堂は解体されていき、経王堂は当寺に観音堂として再び規模を縮小して移築された。経蔵に伝来した一切経、傅大士(ふだいし)及二童子像、鼉太鼓縁などは大報恩寺に保管されている[3]