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神呪寺

山麓には県立森林公園、北山貯水池及び甲山自然の家など自然を生かした施設が展開しています。その甲山の中腹にある神呪寺(かんのうじ)は、海抜200mの高さにあります。天長八年(831年)10月18日、弘法大師を導師に迎えて、本堂が落慶しました。淳和(じゅんな)天皇のお(きさき)であられた眞井御前(まないごぜん)は、当地での満三年間の修業を経て、同日、弘法大師より剃髪を受けられ、如意尼(にょいに)という僧名授かりました。数年後、当地に淳和天皇が行幸(ぎょうこう)され、如意尼と相見(あいまみ)えられたと伝えられています。鎌倉時代初期も源頼朝の再興後も、寺は栄枯盛衰を繰返し、戦国時代には兵火にも遇い、現在の本堂は江戸時代に再建されたものです。寺領は淳和天皇より百五十歩(約45万坪)の御寄進を受け、当初250町歩(約75万坪)でしたが、今の境内は20町歩(約60000坪)で4月の桜や5月の新緑は殊のほか鮮やかです。
                     神呪寺のパンフレットより

神呪寺(かんのうじ、神咒寺)は兵庫県西宮市甲山山麓にある真言宗御室派別格本山の寺院。通称甲山大師(かぶとやまだいし)と呼ばれる。新西国三十三箇所第21番札所。
寺号の「神呪寺」は、「神を呪う」という意味ではなく、甲山を神の山とする信仰があり、この寺を神の寺(かんのじ)としたことによるという。なお、「神呪」(じんしゅ)とは、呪文、マントラ、真言とほぼ同義で、仏の真の言葉という意味がある。開山当時の名称は「摩尼山・神呪寺(しんじゅじ)」であり、「感応寺」という別称もあったようだ。
鎌倉時代末期の禅僧、虎関師錬の『元亨釈書』「如意尼伝」に神呪寺の開基について、記載がある。 それによると、神呪寺は第53代淳和天皇の第四妃(後の如意尼)が開いたとする。一方、『帝王編年記』には、淳和天皇皇后の正子内親王が天長4年(827年)に橘氏公、三原春上の二人に命じて真言宗の寺院を造らせたとある。
皇太子時代の淳和天皇は夢告に従い、四天王寺創建に伴って聖徳太子が開基した京都頂法寺にて、丹後国余佐郡香河(かご)村の娘と出会い、これを第四妃に迎えた。香河では小萩(こはぎ)という幼名が伝わり、この小萩=真名井御前をモデルとした小萩観音を祀る寺院がある。古代、丹後の国は中央氏族とは別系統の氏族(安曇氏などの海人系氏族)の勢力圏であり、大王家に対し后妃を出す氏族であった。この余佐郡の娘、小萩は日下部氏の系統である可能性が高い。


本堂
不動堂