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金剛城寺
金剛城寺(こんごうじょうじ)は、兵庫県神崎郡福崎町にある高野山真言宗の寺院。山号は七種山(なぐささん)。本尊は十一面観世音菩薩。新西国三十三箇所第30番札所。
寺伝によれば、推古天皇5年(597年)に聖徳太子の命を受けた日本における三論宗の開祖である高麗僧恵灌により、七種山の中腹、七種の滝の近くに滋岡寺(しげおかじ)という寺号で創建されたと伝わる。
七種山には修行僧の滋岡川人(しげおかせんにん)が住んでおり、干魃の時に七つの種を人々に与え飢餓から救い、この種は尽きることがなかったという。山の名はこの伝説に由来する。恵灌が寺を建立しようと現地を視察した際、川人より十一面観音を刻んで安置するよう命じられたと伝わる。最初の寺号は、この滋岡川人より名付けられたと言われている。
堂塔伽藍が完成すると、法道仙人を招いて開山式が行われた。天平4年(732年)に焼失するが、聖武天皇の勅命で再建される。空海(弘法大師)の来山以降は真言宗の寺となる。その後寺号を金剛城寺と改めた。
観応元年(1350年)に焼失するが、足利尊氏の命で再建される。しかし、文明6年(1474年)に焼失し、これによって衰退した。江戸時代初期の慶長6年(1601年)に台肪明覚上人により作門寺(さくもんじ)と改められ、復興が始まる。
明治初期に行われた廃仏毀釈などによって寺地を国に没収され、境内が七種山の中腹から現在地に移された。1897年(明治30年)に没収された旧境内地七種山林百十余町歩の下げ渡しの訴訟を起こし、1902年(明治35年)に勝訴している。
1928年(昭和3年)に現在の寺号である金剛城寺に戻された。
当寺の境内を横切る形で当寺の東側にある田賀神社の参道が通っている。

金剛城寺のパンフレットから
*推古帝の御子、聖徳太子自ら七種山に登りたまい、山容に霊気を感じて「これ三宝相応の地なり」と讃嘆せられ、国家安泰の祈願所として一寺を建立せんとの願いを抱かれたのであるが、果さずして薨じ給うた(622)のを、太子の師、慧慈法師より伝え聞いた同じ高麗国の善知識、恵灌法師(推古帝三十三年(625)渡来し我が国三論宗の第一祖となった)来朝するや、太子の遺志を継いでこの地に慈岡寺を創建した。法師の徳を慕う諸国の人々相競って財物を寄進したので、七堂伽藍たちまち竣工、欽明帝の五年(633)五月十八日法道仙人を供養導師として開山の堂供養大法会を厳修した。御本尊十一面観音菩薩は慧慈法師一刀三礼である。

2022年7月28日に参拝した。

金剛城寺の境内図
              

本堂

涅槃像

おきなぐさ

ぎんばいそう