愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)
愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)は、京都市右京区嵯峨にある天台宗の寺院。山号は等覚山。本尊は厄除千手観音。別名千二百羅漢の寺。愛宕山愛宕神社参道の山麓の入り口に位置する「嵯峨野めぐりの始発点」として知られる。
歴史


奈良時代・天平神護2年(766年)、聖武天皇の娘の称徳天皇により今の京都・東山松原通の地、六波羅蜜寺の近くに愛宕寺として創建された[1]。寺名の由来は山城国愛宕郡(おたぎごおり)に初めて建てられた寺院だからだという。
平安時代初めには真言宗東寺派の末寺となっていたようである。醍醐天皇の時代、すでに荒れ寺となっていたところ、近くを流れる鴨川の洪水で堂宇を流失、廃寺となってしまった。その後、醍醐天皇の命により天台宗の千観内供(伝燈大法師)が復興した。念仏上人と呼ばれていた千観が当寺で念仏を唱えていたことから、当寺はその名を愛宕念仏寺と改め、天台宗に属した。この際いったんは七堂伽藍を備え勅願寺としての体裁を整えたが、その後は興廃を繰り返し、最後は本堂、地蔵堂、仁王門を残すばかりとなった。

1922年(大正11年)、本堂の保存のために現在地に移築・移転し、復興を図る。しかし、太平洋戦争中に無住となり、1950年(昭和25年)のジェーン台風で当寺は大きな被害を受けて荒れ果ててしまい、ついに廃寺となった。

1955年(昭和30年)、仏師で僧侶の西村公朝が天台宗本山延暦寺から当寺の再興を命じられ、住職に任じられたが、引き受けるのをためらったという。清水寺貫主・大西良慶の「それだけ傷んでおれば、草一本むしりとっても、石一つ動かしても、おまえは復興者、復興者やといってもらえる。わしも手伝ってやるから」との激励を受け、復興に取りかかった。以来、仏師として全国を飛び回る傍ら境内の整備を行っている。
1980年(昭和55年)には、10年がかりの仁王門の解体修理が始められた他、本格的に境内の復興に着手している。翌1981年(昭和56年)からは一般の素人の参拝者が自ら羅漢像を彫って奉納する「昭和の羅漢彫り」が始められた。当初は500体が目標だったが、10年後には1,200体に達した


愛宕念仏寺のパンフ
レットより掲載

愛宕念仏寺のパンフ
レットより掲載

愛宕念仏寺のパンフ
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