宝塚市小浜地区
宝塚市の小浜(こはま)は歴史ある地で、15世紀末(戦国時代)には毫摂寺の寺内町として栄え、江戸時代になってからは、京伏見街道、西宮街道、有馬街道が交わる宿場町として賑わいました。また、名水「玉の井」の地として酒造が発達し、さらに「小浜組」と呼ばれる大工衆の町としても名を馳せました。

宝塚町(たからづかちょう)は兵庫県川辺郡に1951年から1954年まで存在した町。現在の宝塚市は1954年に新設合併で誕生したものであり、本町とは異なる自治体である。
町制施行するまでは小浜村(こはまむら)であった。 現在の宝塚市南部、武庫川左岸に位置する。小浜は伊丹台地の西端に位置し、平安時代に周辺が陸化するまで瀬戸内海が深く入り込む浜であった。9世紀に国府が置かれ、総社・売布神社が創設される。 15世紀末、覚如の末裔である一向宗(浄土真宗)の善秀が小浜庄を開き毫摂寺を建立。その際、周囲三方を大堀川が迂回する地形を利用して小浜を城塞化、 …
小浜宿(こはまじゅく)は、有馬街道の宿場の一つ。江戸時代の摂津国川辺郡小浜町、現在の兵庫県宝塚市小浜にあった。京伏見街道、西宮街道も通り、交通の要衝であった。
小浜は伊丹台地の西端に位置し、平安時代に周辺が陸化するまで瀬戸内海が深く入り込む浜であった。9世紀に国府が置かれ、総社・売布神社が創設される。

15世紀末、覚如の末裔である一向宗(浄土真宗)の善秀が小浜庄を開き[1]毫摂寺を建立。その際、周囲三方を大堀川が迂回する地形を利用して小浜を城塞化、寺内町として一向宗勢力の拠点となり、戦国大名や織田信長の一向一揆弾圧に備えた。信長が、荒木村重を伊丹城に攻めた(有岡城の戦い)際には、信長方に付いて難を逃れている[2]。

その後、有馬などの街道が通る交通の要衝としての地位を確立する。豊臣秀吉や秀次も有馬湯治の際に立ち寄ったが、秀次が毫摂寺の娘を側室にしたことから、秀次失脚の折、焼き打ちにあってしまう。
復興した小浜は、その後江戸幕府からも重視され、小浜宿が成立して発展。脇本陣や旅篭、木賃宿、商家、馬借が林立した。また、名水「玉の井」を使用した酒造「小浜流」が発達[3]。摂津国鴻池村にて酒造業を起こしていた山中幸元(鴻池新六)の長男山中清直が、慶長19年(1614年)に分家し、小浜宿の「扇屋」を買収し酒造業を営んだ。灘五郷に先立つ大酒造業地となり、小浜の酒は江戸詰めの大名諸侯はじめ全国に知れ渡ったが、18世紀から次第に灘五郷へ譲渡されてほぼ消滅する。1723年には大工の集団「小浜組」が結成、大工の町としても知られるようになる。
寺内町
小浜は、南西北の三方を迂回する大堀川に加えて東側に溜池を掘り、周囲に土塁を廻らして防御性を高めた城塞寺内町であった。街道ごとの三方には門を構え、東門は京伏見街道、北門は有馬街道、南門は西宮街道に通じていた。南北750m・東西400mの総構えで、小浜城とも呼ばれる。

宝塚市が合併でできた推移
江戸時代は摂津国に属し、武庫郡の川面村・美佐村、川辺郡の安倉村・小浜町・米谷村・安場村であった。
1885年(明治18年) - 川面村が安場村を併合する。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、川面村、美佐村、安倉村、小浜町、米谷村が合併、川辺郡小浜村となった。
1897年(明治30年)12月27日 - 村域中央に阪鶴鉄道(現 福知山線)開通。
1910年(明治43年)3月10日 - 箕面有馬電気軌道(現 阪急宝塚線)開通。
1951年(昭和26年)3月15日 - 小浜村が町制を施行して改称、宝塚町となる。
1954年(昭和29年)4月1日 - 良元村と合体合併して宝塚市が成立する。

小浜町

小浜(こはま)町は現在の小浜1 - 5丁目、旭町3丁目。小浜宿を中心とした地域で、現在も旧家が多く残り、宝塚市立小浜宿資料館がある。
9世紀に国府が、15世紀に小浜庄と毫摂寺が創建され、真宗寺内町として城塞化、小浜城とも呼ばれた。
交通の要衝でもあり、17世紀には小浜宿が設けられ、宝塚市域唯一の町として発展した。農地は少なく、農業より商業や製造業中心であった。
産土神は皇太神社で、前述の見佐神社合祀後、皇大神社へ表記を変えた。

宝塚市の由来
宝塚は、古く縄文・弥生時代にさかのぼる昔から人々の営みが続けられてきた土地で、200基を超す古墳などがその歴史を物語っています。
1701年に岡田渓志という人物が編さんしたとされる地誌・摂陽群談には、宝塚について「この塚のそばで物を拾う者に必ず幸せあり。このことによって宝塚の名が付いたといわれている」などと紹介されています。
「塚」とは市内に数多く残る古墳のことです。幸福をもたらす土地として人々に語り伝えられ、宝塚の地名が生まれたと考えられています。→宝塚市教育委員会のHPより

2022年9月15日現地へいきました。阪急宝塚線 売布駅で降りて歩いていきましたが
現地は中国道で寿町から分断されており、一番の近道は売布駅でおりてから宝塚方面に歩き中国道にあたるのでそれを越えると中国道に沿って歩道がありその歩道を大阪方面に歩けば、行き止まりになり、そこを右折して行けば車は通れないが、大堀川にかかる橋があり、それを越えると小浜に到着することがことがわかった。この道は畑の道であるので現地の方でないとわからない。
小浜地域は、明応年間(15世 紀末)に浄土真宗の蔓摂寺 が建立され、その寺内町と して発展 しました。その後も大阪や京都 と有馬、西宮な どを結ぶ交通の要衝であるところから、江戸幕府の重視するところとな り、幕末 までの間、旅籠や本賃宿、馬借な どが並ぶ宿場町として大いに栄え、大工や左官のEB」 、酒造 りの町 としてもLElら れています。その後、幾多の変遷を経て今 日に至 りますが、現在も当時の面影を残す町屋や制本L、 大工道具な どの歴史資料が残 っています。
こう した歴史や伝統、あるいは文化遺産を大切に保存 し、市民の方々に広 く紹介するとともに、次の世代に弓き継いでいくことが、私達 に与えられた使命であると考え、この「小浜宿資料館」を建設 しました。皆様方 にはぜひ、当資料館 だけでを く、周辺のたたずまいや、歴史的町並みも併せてご覧いただき、往時の町並みや生活の様子を通 じて、当市の歴史の一端 に触れていただけましたら幸いです。
なお、当資料館の設置に際 し、戦国時代の武将 山中鹿之介幸盛を祖先とする山中家の多大なご協力を賜 りました。特に入 り□西側にある土蔵は山中家が使用されて
いたものを、そのまま収蔵庫として改修 しています。最後にな りま したが、山中家並 びに地元の方々のご好意 と、長年にわたるご努力に対 しまして、ここに深く感謝の意を表 し、ごあいさつとぃたします。
                   →宝塚市教育委員会
小 浜 の 町 並 み
小浜の成立については明確なことはわかりませんが、明応年間(15世 紀末)に 、僧・善秀が小浜庄を開いたという記録 (『摂陽群談』)が あり、おそくともこの頃にはこの町の核になる竃摂寺が成立 していたと考えられています。また、F私心記』によって永禄三年 (1560)に 豪摂寺があったことが確実視されています。このように16世紀前半には小浜が真宗寺町 として、北陸から近畿― 円に作 られた他の浄土真宗寺院と同様に布教と戦国大名に対抗するため、交通の便が良い、要害の地を立地として築かれました。小浜は、自然地形をうまく利用 し、北 西 。南の三方を大堀川が迂回 し、東側は 谷の上池 ・下池及び土塁で囲まれており、城塞的様相を示 しています。浜の地が「町」として現れるのは、江戸時代の初頭の元和元年(1617)の ことで、『高改帳』に「七拾石 小浜可町」と 記されています。その後の史料 にも「小浜町」 として現れ、宝塚市域で唯一 の町場として存在 していたことがわかつています。
町家は、江戸後期以降のものがあり、通り土間型式を主として、虫寵窓や格子戸などのたたずまいを残 しています。
小 浜 と 街 道
小浜には大坂から伊丹を通り、湯山 (有馬)に至る潟治の道としての有馬街道や、西宮から伊子志の渡しで武庫川を渡り、酒や米を運んだ西宮街道 (馬 街道)、 京都・伏見から山崎を通り、瀬川半町やカロ茂を経て入つてくる京伏見街道などの道筋が入っていました。このため小浜の地は、江戸幕府から交通の要衝として重視され、抜け荷の禁止や駄賃を定めた制札 (幕府の御定書)な ども残っています。また、小浜は荷物の継ぎ荷のことで西宮市の生瀬宿と争いがあったことも浄橋寺文書(西宮市)な どの記録に残つています。小浜は嘉永四年 (1851)の記録によると、戸数202戸で人□800人であり、馬借・問屋・茶屋・旅籠などがならぶ町場で 専業農家はほとんど無かったとされています。
また、酒造りの名所としても知られ、井原西鶴は『西鶴俗つれつれ』のなかで 名酒の産地として小浜の名をあげています。さらに小浜 は大工の町 としても知 られ 、享保 八年(1723)ご ろ大工の組として 「子浜組」が成立しています。小浜の大工は腕の良いことで知られ、この近辺だけでなく各地で活躍 していたようで、幕末期の大工の棟梁西村則周は戊辰戦争後、戦乱で壊れた京都御所蛤御門の再建の棟梁や、大阪難波別院御堂の脇棟梁などをつとめた名大工だったようで 彼の墓は 小浜の墓地内にありま或



                             宝塚市小浜地区の地図

                             



皇大神社の境内に咲く デュランタ

毫摂寺

首地蔵

皇大神社

旧和田家住宅

墓と大堀川の間の道
白いヒガンバナがたくさん
植えられている

小浜宿資料館