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醍醐寺
醍醐寺(だいごじ)は、京都市伏見区醍醐東大路町にある真言宗醍醐派の総本山の寺院。山号は醍醐山(深雪山とも)。本尊は薬師如来。上醍醐の准胝堂(じゅんていどう)は、西国三十三所第11番札所で本尊は准胝観世音菩薩。京都市街の南東に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内を持ち、国宝や重要文化財を含む約15万点の寺宝を所蔵する。豊臣秀吉による「醍醐の花見」が行われた地としても知られている。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。
平安時代初期の貞観16年(874年)、弘法大師空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音ならびに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山し、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。醍醐とは、『大般涅槃経』などの仏典に尊い教えの比喩として登場する乳製品である。貞観18年(876年)には聖宝によって准胝堂と如意輪堂が建立されている。

醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯(上醍醐)を中心に、多くの修験者の霊場として発展した。後に醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を与え、延喜7年(907年)には醍醐天皇の御願により薬師堂が建立されている。その圧倒的な財力によって延長4年(926年)には醍醐天皇の御願により釈迦堂(金堂)が建立され、醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が成立し、発展した。理性院、三宝院(灌頂院)、金剛王院(現・一言寺)、無量光院、報恩院の醍醐五門跡から歴代座主が選ばれるなど大いに栄えていた。

醍醐寺公式ホームページ
<緒嗣亡き後もその子藤原春津によって緒嗣の菩提を弔うための事業として続けられ、斉衡2年(855年)に法輪寺として完成を見た。 平安時代後期になると、紀伊国熊野の熊野三山に対してこの地を今熊野と称し、白河法皇の時代には今熊野修験の中心地として栄え、寺名も東山観音寺と呼ばれるようになる。 後白河上皇は熱心な熊野三山の信者であったが、紀伊国熊野の地は遠く、気軽には参詣できないために今熊野と呼ばれていた当地一帯に目を付け、永暦元年(1160年)に当地に新たに熊野権現を勧請し、当山の本尊をその本地仏として定めたうえで「新那智山」の山号を授けて東山観音寺を観音寺に改め、山麓に新熊野神社をも造営した。 鳥辺野の南西の地(鳥戸野)は、古くからの貴族の葬地であったが、当寺がその葬地をつかさどっていた。そのため貴族の葬儀や法要の多くを観音寺は行っている。後堀河天皇の観音寺陵は、当寺の東南に隣接している。 南北朝時代の騒乱や応仁の乱などで境内は荒廃したがその都度復興し、天正8年(1580年)には本格的に復興がなされている。現在の本堂は正徳2年(1712年)に、宗恕祖元によって建立されたもので元々は奥の院の順礼堂が建っていた。 後白河上皇は持病である頭痛を当山の観音菩薩によって治してもらった。この出来事以来、一般の人々からも頭痛封じの観音様として尊崇されるようになった。 境内には、西国三十三所観音霊場の各本尊を石仏とし安置し、巡拝ができる「今熊野西国霊場」がある。


<緒嗣亡き後もその子藤原春津によって緒嗣の菩提を弔うための事業として続けられ、斉衡2年(855年)に法輪寺として完成を見た。 平安時代後期になると、紀伊国熊野の熊野三山に対してこの地を今熊野と称し、白河法皇の時代には今熊野修験の中心地として栄え、寺名も東山観音寺と呼ばれるようになる。 後白河上皇は熱心な熊野三山の信者であったが、紀伊国熊野の地は遠く、気軽には参詣できないために今熊野と呼ばれていた当地一帯に目を付け、永暦元年(1160年)に当地に新たに熊野権現を勧請し、当山の本尊をその本地仏として定めたうえで「新那智山」の山号を授けて東山観音寺を観音寺に改め、山麓に新熊野神社をも造営した。 鳥辺野の南西の地(鳥戸野)は、古くからの貴族の葬地であったが、当寺がその葬地をつかさどっていた。そのため貴族の葬儀や法要の多くを観音寺は行っている。後堀河天皇の観音寺陵は、当寺の東南に隣接している。 南北朝時代の騒乱や応仁の乱などで境内は荒廃したがその都度復興し、天正8年(1580年)には本格的に復興がなされている。現在の本堂は正徳2年(1712年)に、宗恕祖元によって建立されたもので元々は奥の院の順礼堂が建っていた。 後白河上皇は持病である頭痛を当山の観音菩薩によって治してもらった。この出来事以来、一般の人々からも頭痛封じの観音様として尊崇されるようになった。 境内には、西国三十三所観音霊場の各本尊を石仏とし安置し、巡拝ができる「今熊野西国霊場」がある。


醍醐寺境内図