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正法寺(岩間寺)

正法寺(しょうほうじ)は、滋賀県大津市にある真言宗醍醐派の寺院。山号は岩間山。本尊は千手観世音菩薩。開山は加賀国白山を開いた泰澄(たいちょう)である1]。別称は岩間寺(いわまでら)。西国三十三所第12番札所。

本尊真言:おん ばざら たらま きりく そわか 
ご詠歌:水上(みなかみ)はいづくなるらん岩間寺 岸打つ波は松風の音
縁起によれば、元正天皇の病気平癒祈願に功のあった泰澄が養老6年(722年)、岩間山中の桂の大樹から千手陀羅尼を感得し、その桂の木で等身の千手観音像を刻んで、元正天皇の念持仏である金銅千手観音像をその胎内に納め祀ったのが当寺の初めとされる。
本尊の金銅千手観音立像は、上述の元正天皇の念持仏で、当初の本尊の胎内仏とされたもの。像高は4寸8分(約15cm)。現在は本堂の三重の厨子に納められ、秘仏とされている。毎夜日没時に厨子を抜け出て百三十六地獄を駆け巡って人々を救済し、日の出とともに岩間山へ戻る際には汗みずくとなっているといわれ、「汗かき観音」とも呼ばれている。1990年(平成2年)に365年ぶりに開扉されたほか、2009年(平成21年)から2010年(平成22年)にかけて花山法皇一千年忌を記念した「西国三十三所結縁御開帳」の際にも開扉された。

岩間正法寺縁起より
滋賀県大津市と京都府宇治市の境にある標高443mの岩間山中腹に位置し、岩間山正法寺と称する。
西国三十三所第十二番、ぼけ封じ近畿十楽 観音霊場第四番札所、びわ湖百八霊場湖西二十七古刹第二番。
養老六年(722年)、加賀白山を開いた泰澄大師が元正天皇の33歳の大厄の病を法力により治した褒美として建立したことに始まる元正天皇の勅願寺院である。往昔は、後白河(ごしらかわ)・後宇多(ごうだ)・正親町(おおぎまち)天皇等歴代天皇の尊崇厚く熊野、吉野に並ぶ、日本三大霊場の一として隆盛していた。
養老六年元正天皇の病気平癒祈願を成満した泰澄は、同年、加賀白山を開く途上、霊地を求め岩間山を訪れた折、桂の大樹より千手陀羅尼を感得し、その桂の木で等身の千手観音像を刻み、元正天皇の御念持仏をその胎内に納め祀りご本尊とした。
ご本尊は、毎夜日没とともに厨子を抜け出て百三十六地獄を駆け巡り、苦しむひとびとを悉く救済し、日の出頃、岩間山へ戻られた時には汗びっしょりになられているので、そのお姿から「汗かき観音」さんと呼ばれている。
また、泰澄大師が当地に伽藍建立の際、たびたび落ちる雷に困り果て、ご自分の法力で雷を封じ込め、落ちる訳を尋ねられたところ、雷は大師の弟子になりたいのだと申し出た。大師は快く雷を弟子にし、その代わりに岩間寺に参詣の善男善女には、雷の災いを及ぼさないことを約束させた。これが「雷除け観音」とよばれる由縁で、毎年四月十七日には、雷除け法要(雷神祭)が奉修され、多くの参詣者で賑わう。
この雷は、水の乏しい寺のために、自らの爪で井戸を掘ったという。この"雷神爪掘湧泉"と呼ばれる霊泉には元正天皇御製の、「沸きいづる 岩間の水はいつまでも つきせぬ法の み仏の影」という歌が伝えられている。
また、『観音霊験記』によると、江戸時代の俳聖松尾芭蕉は、岩間寺に参籠してご本尊の霊験を得、その俳風を確立したと言われており、本堂横手には芭蕉が「古池や蛙とびこむ水のおと」を詠んだと伝えられている"芭蕉の池"が残っている。
西国第11番の醍醐寺とは本末関係にあり、鎌倉時代に編纂された『醍醐雑事記』には醍醐寺末寺の筆頭「石間寺」として挙げられているなど、正法寺は法界寺とともに醍醐寺から僧侶が直接法会法式を行う別院として、醍醐寺の庇護を受けていた。このことは明治の寺院調査の記録にも記載されているが、正法寺が醍醐寺より禄を受け運営の資としていたことからも明瞭である。さらに現在の本堂は醍醐寺理性院尭助僧正が、正親町天皇の御願を受け、天正5年(1577)に建立されたもので、以降、理性院が管理に大きく携わっていたことが『正親町天皇宸翰女房奉書(理性院宛)」、『妙法院門跡日記』などより知られている。また、住職もその多くが近世に至るまで醍醐寺内より選ばれて就任し、護持に尽力してこられている。

2011年8月11日に参拝したが、当地は山の中腹にあった。

境内図


本堂

不動堂

大師堂

本堂