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観音寺
今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ)は、京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派の寺院。総本山泉涌寺の塔頭。山号は新那智山。本尊は十一面観音。正式な寺号は観音寺(かんのんじ)である。西国三十三所第15番札所。洛陽三十三所観音霊場第19番札所。

本尊真言:おん まかきゃろにきゃ そわか

ご詠歌:昔より立つとも知らぬ今熊野 仏の誓いあらたなりけり

空海が唐で真言密教を学んで帰国した翌年にあたる大同2年(807年)、東山から光が出ているのを見つけた空海は、不思議に思って当地にやってきたところ、老人の姿をした熊野権現が現れた。熊野権現は空海に天照大神御作の一寸八分の十一面観音菩薩像を手渡してこの地に一宇を建ててこの観音菩薩を祀り、衆生を救済するようにと言った。
そこで空海は自ら一尺八寸の十一面観音菩薩像を刻み、授かった一寸八分の像をその体内仏として中に納め、熊野権現の言うようにこの地に一宇を建てて奉安した。これが当寺の始まりであるとされる。
弘仁3年(812年)には嵯峨天皇からも支援を受けて諸堂を造営し、天長年間(824年 - 833年)に完成したとされる。さらに左大臣藤原緒嗣の発願によって広大な寺域に伽藍の造営が図られると、緒嗣亡き後もその子藤原春津によって緒嗣の菩提を弔うための事業として続けられ、斉衡2年(855年)に法輪寺として完成を見た。
平安時代後期になると、紀伊国熊野の熊野三山に対してこの地を今熊野と称し、白河法皇の時代には今熊野修験の中心地として栄え、寺名も東山観音寺と呼ばれるようになる。
後白河上皇は熱心な熊野三山の信者であったが、紀伊国熊野の地は遠く、気軽には参詣できないために今熊野と呼ばれていた当地一帯に目を付け、永暦元年(1160年)に当地に新たに熊野権現を勧請し、当山の本尊をその本地仏として定めたうえで「新那智山」の山号を授けて東山観音寺を観音寺に改め、山麓に新熊野神社をも造営した。
鳥辺野の南西の地(鳥戸野)は、古くからの貴族の葬地であったが、当寺がその葬地をつかさどっていた。そのため貴族の葬儀や法要の多くを観音寺は行っている。後堀河天皇の観音寺陵は、当寺の東南に隣接している。
南北朝時代の騒乱や応仁の乱などで境内は荒廃したがその都度復興し、天正8年(1580年)には本格的に復興がなされている。現在の本堂は正徳2年(1712年)に、宗恕祖元によって建立されたもので元々は奥の院の順礼堂が建っていた。

後白河上皇は持病である頭痛を当山の観音菩薩によって治してもらった。この出来事以来、一般の人々からも頭痛封じの観音様として尊崇されるようになった。
境内には、西国三十三所観音霊場の各本尊を石仏とし安置し、巡拝ができる「今熊野西国霊場」がある。

今熊野観音時