瑠璃山 井戸寺

大師ゆかりの井戸が寺号となった


かつて古代阿波の中心地であったこの附近は、いま、農村地帯となり、はなやかりしころの面影はない。大谷の藩主の別館の長屋門を移築したという山門を入ると、正面に本堂がある。昭和四十三年の焼失以後に再建されたコンクリート造りの建物。縁起によれば、天武天皇の勅願道場として白鳳二年(六七四)に開創され、そのころは妙照寺とよばれ、八町四方の広大な寺域と十二坊を有する大寺であった。本尊の七仏薬師は聖徳太子の作。脇仏の日光・月光菩薩は行基菩薩の作。弘仁五年弘法大師はこの地にとどまり、ご本尊を拝して修行され、十一面観音立像を刻まれて安置した。そして、この地方の水が悪いのを憂いて、錫杖で井戸を堀られたら、清水がこんこんと湧き出て大師のお姿を写された。そこでご自身の姿を石に刻まれた。面影の井戸や井戸寺の名もこれに由来する。大師の石像に日を限って祈願すると願いがかなうので日限大師として多くの信仰をあつめている。
7世紀後半の白鳳時代は、清新な日本文化が創造された時期で、律令制もようやく芽生えて、阿波の国にも国司がおかれた。この国司に隣接して、天武天皇(在位673〜86)が勅願道場として建立したのが井戸寺であり、当時の寺名は「妙照寺」であったという。寺域は広く八町四方、ここに七堂伽藍のほか末寺十二坊を誇る壮大な寺院があり、隆盛を極めたと伝えられている。本尊は、薬師瑠璃光如来を主尊とする七仏の薬師如来坐像で、聖徳太子の作と伝えられ、また、脇仏の日光・月光菩薩像は行基菩薩の彫造と伝えられる。のち弘仁6年(815)に弘法大師がこれらの尊像を拝むために訪れたとき、檜に像高約1.9メートルの十一面観音像を彫って安置されている。この像は、右手に錫杖、左手に蓮華を挿した水瓶をもった姿形で、現在、国の重要文化財に指定されている。大師はまた、この村が水不足や濁り水に悩んでいるのを哀れみ、自らの錫杖で井戸を掘ったところ、一夜にして清水が湧き出した。そこで付近を「井戸村」と名付け、寺名も「井戸寺」に改めたという。
ただ、南北朝時代以降の寺史は激変する。まず貞治元年(1362)、細川頼之の兵乱で堂宇を焼失し、次いで天正10年(1582)には三好存保と長宗我部元親との戦いでも罹災している。江戸時代に本堂が再建されたのは万治4年(1661)であった。 七仏薬師如来は全国でも珍しく、七難即滅、七福即生などの開運に信仰が多い。

井戸寺の見どころ
面影の井戸・日限大師・仁王門(阿波10代藩主・蜂須賀重喜公が大谷別邸から移築し寄進した門。)

観音寺から徒歩約3km、車約4km


瑠璃山 井戸寺

境内案内図


本堂


大師堂


面影の井戸