霊鷲山 鶴林寺

武将の篤い信仰が残る阿波の難所「二のお鶴」


山裾より急坂で幽寂な遍路を約4km、1時間半ほど登れば山門に辿りつく。此の遍路道には21箇所の石柱が建っていて、お遍路さんの苦楽の指標となっている。此の標石柱を「丁石」(ちょういし)と呼称し、当寺の本堂を起奌に一丁石から十一丁石までの花崗岩方柱に貞治2年(1362)、応安、永和、明徳の元号が刻入されている。敷石道を歩みながら室町時代の大師信仰者の念いに誘われる。
此の参道の保全のために20年に及ぶ檀家ボランティア活動が評価され平成10年国史跡に指定される。海抜470mの山容を三段に亘って伽藍が配置されている。その中央段の東側に老大樹に囲まれて三重塔の尖端が天空にのびている。
江戸時代後期、文化14年(1817)着工、文政10年(1827)上棟。本塔の特徴は勾欄にある。初重は「擬宝珠」、二重「はね」三重に「逆蓮柱」を用いて固めている。此の塔の落慶儀式に庭儀曼荼羅供の大法会が執り行なわれたが往時の儀式用具も完備し設計図面も現存。徳島県下唯一の三重塔として昭和27年県指定重要文化財となる。※画像1
標高470メートルの鷲が尾の山頂にあり、遠く紀州や淡路の山峰、遙かに太平洋を眺望できる風光明媚な霊山が境内である。樹齢千年を超すような老杉、檜や松の巨木が参道を覆っており、寺門は静謐ながら隆盛の面影をしのばせる。寺伝によると延暦17年、桓武天皇(在位781・806)の勅願により、弘法大師によって開創された。大師がこの山で修行していたとき、雌雄2羽の白鶴がかわるがわる翼をひろげて老杉のこずえに舞い降り、小さな黄金のお地蔵さんを守護していた。この情景を見て歓喜した大師は、近くにあった霊木で高さ90センチほどの地蔵菩薩像を彫造、その胎内に5.5センチぐらいの黄金の地蔵さんを納めて本尊とし、寺名を鶴林寺にしたといわれる。

また、境内の山容がインドで釈尊が説法をしたと伝えられる霊鷲山に似ていることから、山号は「霊鷲山」と定められた。以来、次の平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇と歴代天皇の帰依が篤く、また源頼朝や義経、三好長治、蜂須賀家政などの武将にも深く信仰されて、七堂伽藍の修築や寺領の寄進をうけるなど寺運は大きく栄えた。阿波一帯の寺が兵火に遭遇した「天正(1573・92)の兵火」にも、山頂の難所にあるためか難を免れている。「お鶴」「お鶴さん」などと親しまれ、山鳥が舞う大自然そのままの寺である。「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と呼ばれる難所の1つ。

立江寺から徒歩約15km、車約16.6km


境内案内図