龍頭山 金剛頂寺

原始林に覆われた行当崎の密教道場


当山二代・智光上人は弘法大師伝によると、世に隠れたる聖人二人であり、一人は大和の室生寺堅恵大徳、一人は土佐金剛頂寺の智光上人とあり、堅恵は智恵第一の人、智光は行力第一のの聖人と讃えられています。上人はかつて大師禅定の西寺根本樹下の法窟に籠もり、一生山を出ずして精進修行し、大師が承和2年3月21日高野山に御入定と知るや、御後を慕いて、同年4月21日この地に大師と同様、寂然として入定留身し給うと伝えています。
室戸岬から海岸沿いに西北に向かうと、土佐湾につき出した小さな岬がある。硯が産出するので硯が浦ともいわれる「行当岬」である。その岬の頂上、原始林の椎に覆われて静寂さがただよう境内が金剛頂寺であり、室戸三山の一寺院として「西寺」の通称でも親しまれている。朱印も「西寺」と捺される。当寺から4㎞のところに女人堂と呼ばれる不動堂がある。若き弘法大師はこの間を毎日行き来し修行した霊地であり、行道したことから、「行当」はその名残かもしれない。縁起によると、大師が平城天皇(在位806〜9)の勅願により、本尊の薬師如来像を彫造して寺を創建したのは大同2年と伝えられている。創建のころは「金剛定寺」といわれ、女人禁制とされて、婦女子は行当岬の不動堂から遙拝していたという。

次の嵯峨天皇(在位809〜23)が「金剛頂寺」とした勅額を奉納されたことから、現在の寺名に改め、さらに次の淳和天皇(在位823〜33)も勅願所として尊信し、住職は第十世まで勅命によって選ばれており、以後、16世のころまで全盛を誇った。
室町時代に堂宇を罹災したこともあったが復興ははやく、長宗我部元親の寺領寄進や、江戸時代には土佐藩主の祈願所として諸堂が整備されている。昭和になって注目されるのは正倉院様式の宝物殿「霊宝殿」の建立である。平安時代に大師が各地を旅したときの「金銅旅壇具」は、わが国唯一の遺品であり、重要文化財が数多く収蔵されている。

○金剛頂寺(廿六番札所通称西寺(東は最御崎寺))は弘法大師が大同二年(807年)平城天皇の勅命をうけ建立され嵯峨天皇により国家鎮護の勅願道場とされた古刹である。大師が一刀三札し彫ったといわれる薬師如来像は自ら動き出し本堂に鎮座したといわれる。大師堂の横には大師が一粒の米を入れて炊くと万倍に増えたという一粒万倍の釜、礼宝殿には大師の金銅旅檀具ほか仏像美術品の文化財が多く納められている。また、泉井守一氏寄進の鯨供養釣鐘のほか8000頭鯨供養碑が建ち、捕鯨具などが展示されている。その他貴重な土佐捕鯨資料も残されている。また県指定天然記念物「ヤッコウソウ」の自生地でもある。ヤッコウソウは椎の古木の根に寄生する植物で、奴(やっこ)に似ているのでこの名がつけられた。真言宗道場であったため明治初年まで女人禁制であった。→室戸市教育委員会

金剛頂寺には宿坊があるが2022年3月17日現在やっていない。ただ宿泊しましたが食事の量は食べきれないほどだされた。4km程下に降りたところに空海遍路文化会館があり
その周辺では空海が修行したとおもわれるところがある。東にある御厨人窟と同様洞穴がある。金剛頂寺の関係者はそこがまさに空海が修行したところと主張している。
その不動岩は金剛頂寺の奥の院といわれるところである。
空海と不動岩


金剛頂寺の見どころ
霊宝殿・奴草・鯨供養塔(鯨の供養塔。別名「クジラ寺」)・一粒万倍の釜(大師が炊いた米が一万倍に増え、人々を飢えから救ったという釜)

最御崎寺から約6.5km

境内案内図



 

本堂

大師堂

駐車場に咲く
すずらん水仙(スノーフレイク)

本堂

奥の院不動岩の様子

奥の院不動岩の様子

不動岩から海岸を望む