『四國禮霊場記』(元禄2年=1689)には「医王の神化を人みな仰ぎ寺院繁栄に至り、十二宇門甍を接し鈴鐘のひびき絶える時なし…」と記され、その昔は阿讃の山麓から現在地まで寺域が点在し、戦国時代の兵火や明治維新の神仏分離令を経て現在に至っている。
ここ引野村には古くから温泉があり、安楽寺は弘法大師によって温泉湯治の利益が伝えられた旧跡で、山号は温泉山とされた。(現在も大師堂前から温泉が湧き出ている。)桃山時代に阿波藩祖・蜂須賀家政公が「駅路寺」と定め、四国遍路や旅人の宿泊、茶湯接待の施設を置いた。その記録である「駅路寺文書」(慶長3年=1598)が今も残されており、宿坊は以来400年の歴史を有する。藩政時代は山門に蜂須賀家の家紋が入った雪洞が許され、寺域は殺生禁断とされた。茅葺き屋根の方丈は、250年前に蜂須賀公により寄進され、質素ながら堂々とした木造建築である。

愛知県尾西市の水谷しづさん(当時49歳)は、脊髄カリエスの難病にかかり床についていた。当寺の住職は、夫の繁治氏に病床で苦しむしづさんを伴い、四国遍路をすすめた。二人は遍路の旅を決行した。ところが不思議にも巡礼の途中に、しづさんの難病が快癒した。現在の本尊・薬師如来像は、その報恩のために奉納されたもので、43センチほどの古来の本尊は胎内仏として納められている。昭和37年のことである。安楽寺には、運慶・快慶の流れをくむ慶派の京都大仏師・松本明慶師(1945〜)が無名時代から彫り続けた仏像六十体が各御堂に祀られている。大師堂の弘法大師像はじめ、愛染明王、不動明王などである。また、性霊殿には胎蔵曼荼羅・金剛界曼荼羅がかけられ、石の壁には「五筆和尚」と称された弘法大師のさまざまな筆法の書が刻まれている。

2021年11月10日現地へ行った。その日宿坊にとめていただいた。先ず宿坊は夜にはおつとめがあり、お坊さんがお経をあげて頂き、宿泊者全員でお経を唱えた。
お坊さんの説明によれば四国88カ所は大半が宿坊がありその昔は夜にはおつとめがあったとんこと。現在は非常にすくないとのことである。私が88カ所の内徳島県の寺院では宿坊の建物があっても休業しているところがほとんどであった。このときはコロナ禍のときだあったのでコロナの理由に休業したところもあるようだ。
安楽寺は温泉山という山号をもつので浴場は温泉であった。食事は別添のとおりであるが肉
はなく精進料理だろうかな翌日は12番焼山寺にいった。

見所:山門の仁王像は京都大仏師・松本明慶師の作・本堂前の拝殿には弘法大師の一代記が彫刻されている・多宝塔・さかまつ・宿坊(400年の歴史を持つ宿坊(宿泊施設)には、温泉山の名にふさわしい、天然温泉の大浴場があり、お遍路さんに好評。)

地蔵寺から約5km



境内案内図



本堂

大師堂

多宝塔