摩尼山 国分寺

史跡として境内全域が国の文化財に指定

史跡 土佐国分寺 大正11年10月12日国指定史跡
 土佐国分寺跡は、天平13年(741)聖武天皇の勅願を契機として諸国に造立された国分僧寺のひとつである。伽藍配置を示す具体的遺構は現存しないが寺域を画する土塁が遺存し、古瓦等の散布や塔心礎が残ることなどから、大正11年に寺域一帯が史跡に指定
された。創建期の内容等については詳細は判明してはいないが、現書院の内庭園に置かれた塔心礎や伝世品の梵鐘(平安時代前期作重文)など盛期の寺院活動を示す物証が残されている。最近の発掘調査等により、創建期の遺構とみられる三間×六間の礎石建物跡、僧房と考えられる掘立柱建物群、南限を画する築地、遺跡などが検出され、寺院の様相が次第に明らかにされつつある。→南国市教育委員会
  又次の看板もある
 天平十三年聖武天皇の勅願により僧行基が創建した官寺で当時は方六町の寺域を有し
七堂伽藍が完備されていた。その後弘法大師の中興により四国第二十九番札所となる。鎌倉時代から戦国時代にかけ幾度の戦禍や災害を受けて荒廃したが室町末期に長宗我氏の庇護を承け復興。特に元親が永禄が元年金堂を再建し現在に至る。山内藩政時代にも
寺領が与えられ建物の造営修復は藩の援護を得て行われていた。金堂(本堂)と木造薬師如来像二体並びに梵鐘は国の重要文化財。また創建時の土塁が残る寺域は国の史跡に指定されている


土佐の国分寺といえば、平安中期の歌人、紀貫之(868〜945頃)が浮かんでくる。とくに貫之が著した『土佐日記』は、女性の筆に託して書かれた仮名日記であることはあまりにも有名であるし、貫之が国司として4年間滞在した国衙は、国分寺から北東1㎞ほどの近くで「国分寺共々土佐のまほろば」と呼ばれ、土佐の政治・経済・文化の中心地であった。
聖武天皇(在位724〜49)が『金光明最勝王経』を書写して納め、全国68ヶ所に国分寺を建立したのは天平13年のころ。土佐では行基菩薩が開山し、天下の泰平と五穀の豊穣、万民の豊楽をねがう祈願所として開創された。歴代天皇からの尊信が厚く、加護をうけてきた。
縁起によると、弘法大師がこの地を巡錫したのは弘仁6年(815)のころで、毘沙門天像を彫造して奥の院に安置された。その際に本堂で真言八祖に相承される厄除けの「星供の秘法」を修められた。以来、土佐国分寺は「星供の根本道場」となっている。
本尊千手観世音菩薩を祀る国分寺の本堂(金堂)は、長宗我部国親元親親子が、永禄元年に再建。外観は柿葺き、寄棟造りで天平様式を伝え、内部の海老紅梁は土佐最古といわれ、室町時代の特色が見られる。現在国の重要文化財に指定されている。また、仁王門は明暦元年(1655)、土佐2代藩主・山内忠義公の寄進で建立され、現在の仁王門は昭和の初めに再建され、二層造りである。1250年余の面影を残す境内地は、全域が国の史跡に指定され、杉苔が美しい庭園で「土佐の苔寺」ともいわれる。

国分寺の見どころ
国指定文化財・金堂・庭園、句碑(本堂を背にして、春は桜・牡丹、初夏には紫陽花、秋には萩と、心やすまる参道、創建当時の七重塔の心柱をささえた礎石、杉苔の美しい庭園が広がる。また、高浜虚子の五女・高木晴子さん、長男・年尾さん、孫・稲畑汀子さんの句碑などがある。)・弥生時代の住居跡(昭和52年の発掘調査で発見。)

大日寺から徒歩約9km、車約11km

境内案内図